「ユーウーリ!」
「うん?」
自分の名前を呼ばれて声の方向を仰ぎ見れば、そこには同じ名前の少年の姿。
2階の廊下から手を振るユウリに、視界をちらちら遮る緑の葉の隙間から手を振り返した。すると、次に手招きをしてきた。よく見ると後ろにはクラウスが微笑んでいる。これはひょっとしてお茶のお誘いか。
「……と思ったのに、違った」
「文句言わないでよ。僕だってクラウスとお茶をしたかったけど、外せない用事があるっていうからしょうがないじゃないか」
それは確かに諦めるべきだ。彼の仕事の邪魔をするのは本意ではない。
「でも珍しいね。僕だけを誘うなんて」
「うん?シュウは今日は城に居ないし、ラウはなんでか見当たらなかったからね」
シュウがいないとなるとクラウスはさぞ忙しいだろう。
それに、もしもシュウが自身の引退を本気で視野に入れているとしたら、クラウスが宰相位を継ぐことになるのだろうから仕事量は増えているはずだ。
この世界のデュナンの流れを知ってからは、皆の動きの意味がいろいろと見えるようになってきた。
「はい、どうぞ」
ドン。と目の前に重たい音をさせて下ろされたものは、華奢なカップなんかじゃ勿論なかった。
「なに、コレ」
「見たまんま。書類だけど」
「そうじゃなくて!え、なに?なんのために僕を呼んだの?」
「アハハ、やだなー。僕がただ君とお茶をするためだけに呼んだとでも?」
「うっ」
くそう。そりゃあそうだ。
口の端が引きつる僕をにやにやと笑って見やるユウリに何か一言言い返してやりたい。
しかし目の前で嫌味に笑う、少年の姿をした大人を言い負かすことができるほどに、僕は口が達者ではない。悔しいけれど、ユウリの方がずっと様々な大人たちに揉まれて生きてきている分処世術が身についている。
僕は観念して書類をめくり始めた。こうなったらさっさと終わらせるに限る。
大方予想は付いていた。僕に手渡されたものは既に他の人が目を通したものであり、あとはサインをするのみの書類ばかりだった。
僕とユウリは元々の書き癖が一緒だったから、少し練習をしたらすぐに見分けがつかない程度になった。
さらさらと紙にペンを走らせていく。昔はデスクワークが苦手で早く部屋の外に出たいと思ったものだが、大人になったせいか物珍しいせいか、今はこの単純作業は嫌いじゃない。紙の匂いやインクの匂いは好きなほうだ。ペン先は少し丸くなったくらいの方が滑りが良くて仕事ができる気分になれるが、僕はまっさらな時の紙に尖ったペン先が引っかかる感じが気に入っている。引っかかったあとにできるインク滲みも愛嬌があっていいと思う。
ことん、と目の前にグラスが置かれた。ガラスの器に水だしの緑茶が見た目にも涼しげで、お礼と同時にさっそく手を伸ばしていただく。
思っていたよりも作業に熱中していたのかもしれない、水分で喉が潤う感覚にほっとした。
気付けば窓から斜めに射し込んでいた光が随分と後退していた。夏場の盛りを過ぎたとは言え、太陽が昇る時刻は早い。まだ昼前だというのに既に太陽はほとんど真上に昇っているようだ。
「楽しそうにサインしちゃって」
「ええ?ああ、うん。たまのことだからか結構楽しい」
そう答えれば、ぷっと笑われた。
「ラウとおんなじようなこと言うんだね」
「へえ。でもラウはほとんど一緒にいたらする機会はもっとある……いや、ないか。筆跡違うもんね」
「どうしようもないくらい忙しい時は手伝ってもらってる、実は。あの人、器用だから僕の筆跡なんてビックリするくらい上手いこと真似てみせる。とは言っても、一応これでも国王の仕事だし、あんまり手伝ってもらうのもどうかって話でしょ」
だから君と一緒で、ラウにとってはたまの仕事なんだよ。そう言った。
ちなみにラウや僕がサインした件についてどう把握しているのかというと、それは事前にシュウからきちんと報告がなされているのだという。さすがにサインだけ、なんて適当な仕事はしていないらしい。
「にしても、違う世界の住人である僕にやらせるのもどうかと思うけど」
「君に何を知られたところでどうってことないじゃないか。使えるものは使う。これ、シュウ直伝」
間違いなくシュウらしい考え方で、見事に会得しているようだ。
まぁ良いけれどと僕はペンを再び走らせながら呟いた。
「僕の手を借りたい程度には忙しいんだ」
「忙しい。もー、誰かさんのせいでここ数日仕事が進まなくて」
「誰かさん?だれ?」
「……」
しまったという風なユウリの表情に、僕は答えを知った。
「ラウか。なに、ケンカでもしたの」
「し、してない。まぁちょっと。僕が一方的に怒ったような怒らなかったような」
「はあ」
ちょっと想像してみる。僕がラウに対して一方的に怒る。あ、無理。想像できない。理由も聞きたくないような気がする。
「どちらにしろ仲のいいことでってことだね」
「は?えっ、なんでそうなるの!?」
ユウリの過剰な反応に僕が驚く番だった。
別に、普通に仲が良くなければケンカなんかできないだろうと思っただけだったのだが。
「あの。本当、深い意味じゃないんだけど」
言って後悔した。深い意味ってなんだ。それこそ、そんなことが言いたかったわけじゃあない。
僕の様々な動揺が伝わったのか、ユウリが咳払いをした。
「終わり。この話、終了」
終了することに否もないのだが。
シュッとサインを書き終えて、ペンを一度置いた。
「あんまり詳しくは聞きたくないんだけどさあ」
「じゃあ聞かないでよ!?」
いろいろとスル―するのも疲れた。いっそ明らかな方が気も楽というものだ。たぶん。きっと。おそらく。
「好きなんだよね?」
「……なんで今更その質問……」
脱力気味にこちらを伺うユウリに、「だって」と続ける。
「結構、ラウに酷くない?」
別にラウをかばいたいとかそういうんじゃあない。ただ、あまりその、恋人に対する態度ではない気がするのだ。恋人のいない僕が言うのもなんだが。
少年はハハハと乾いた笑い声を返してきた。
「まぁあれですよ、一種の愛情表現。たぶん」
変な敬語で答えるとき、僕はたいてい照れているときだ。ということは本当か。
「別に、普通に『好きだよ』でいいのに」
「そ、そんなこと普通に言えないよ!」
顔を赤くするユウリを見ていて、段々と何とも言えない気持ちになってくる。
「なんていうか、照れてる自分って考えると気持ち悪いなぁ」
「キモッ!?ちょっと!」
さらに顔を赤くして両腕を振り上げてくるのを僕は笑いながら交わした。
気持ち悪いはあまりに言葉が悪かった。つまりは胸がこそばゆいような感覚なのだ。
「ごめん。違うよ。僕はひょっとすると羨ましいのかもしれないな。うん」
ユウリの攻撃がぴたりと止んだ。両手が下ろされ、次いで腰も再び下ろされた。
「……あのさあ。僕からも聞いてもいい?」
「うん?」
「君って戦争後、誰かと付き合った?」
しまった藪蛇だった。
「ないよ。ずっとジョウイとナナミと旅してるし」
「そうだよねえ。てことはジョウイもナナミも……」
「たぶんね」
たぶんと答えたが、ほとんど確信に近かった。
なるべく人と関わらないようにしていた時期もあった。旅をしている内に一所にしばらく留まることもあったが、僕の知る限り、僕ら三人にそんな出来事はなかったと思うし、そんな余裕だってなかった。
ユウリがうーんと首を傾げる。
「なんだろう、ちょっと不健全な感じだね」
「んー。その辺りはしょうがないかなぁとか。なんかさ、たぶん僕だけじゃなく他の2人も……3人の時間を過ごすんだって、ちょっと躍起になってたとこがあると思う」
「……そっか」
ユウリは不健全と称したが、僕も不自然だとは思ったことがある。それでも、別れていた2年を埋めようと、もう離れまいと、僕らは3人でいることにどこかこだわっていたように思う。
口にしたことで、無意識だったことや見ようとしていなかったことまでが鮮明に見えてくる。
不自然だと、わかっていた。たぶん、ジョウイとナナミも。
それでもまだ3人でいさせて欲しいと強く願っていた。
「そっか」とまた同じ言葉がユウリの口から繰り返された。小さく吐きだされた息は、疲れているようにも感じられる。それはユウリ自身に対してか僕に対してか、僕にはわからない。
「僕はさ。ずっと変わらなきゃ変わらなきゃって、これまでやってきたんだ。……君は逆だね」
「逆……」
「3人でいるために。変わらないようにって。うん、そうなるよね」
ユウリは困ったようにふっと笑ってみせたが、僕は笑えなかった。
変わらないようにしてたなんて考えたことがなかった。
でも、言われてみればその通りだったとすぐに思い至る。
僕は一刻も早く3人の関係を取り戻したかった。だから軍主であった自分でいてはいけなかったのだ。
僕はジョウイやナナミの知る僕であろうとしていた。それは、変わらないようにというよりも、さらに逆行しようとする行為だったかもしれない。
僕が元の世界に戻った時。
僕とジョウイとナナミ。僕らの関係は元に戻るんだろうか。
元とはいつのことを指すのだろう。
そもそも、この世界で変わらないものなんてあるのか。
僕ら3人に、新しい関係性を築く可能性があるなんて、思ってもみなかった。
僕がこうして今2人の傍を離れ、1人でいること。
僕は彼らの元に帰るのだから、また3人に戻ることができると安易に考えていたけれど。
もしかすると、こうしている間にも何かが変わっているのかもしれない。
僕がこの世界に来て僕自身を受け入れたように、彼らも。
ほんの少しの恐怖を覚える。
こんなことでは3人の関係は変わりはしない。そう思いながら。
窓辺へ視線をやれば、もう陽光はバルコニーの端にまで移動していた。太陽がいつのまにか真上を通り過ぎていたようだ。
何もかもがこうやっていつのまにか移りゆくのだろうか。良い変化なら喜ぶべきことだ。でも、変化の善し悪しを決めるのも、大抵の場合は自分自身でしかありえないのだろう。
全ては捉え方一つ。そう、割り切れてしまえればいいのだけれど。
僕は軽く頭を振ると、ふたたびペンを手に取った。先のことを思い悩んだところでどうしようもない。
でも本当は、心のどこかで先のことなんかじゃないことに気付いていた。