フェザーが力強く飛び立っていく様を塔の中から見送った。
かの青年の姿は見えないが、間違いなくあのグリフォンの背に乗っているのだろう。昔から動物に好かれる人物だったから、久しぶりのグリフォンの背にも難なく乗せてもらえたに違いない。

「……大きな風でしたね」
「セラ。ああ、君はグリフォンを見るのは初めてだったか」
「あっ。はい」

歯切れの悪い返事に首を傾げると、少女が申し訳なさそうに再度口を開いた。

「セラが申し上げたのは、ユウリ様のことです。とても、とても大きな風をまとった方だと」
「ユウリか……。セラにはそう見えたのかい。あいつの宿している紋章は光なんだけどね」
「はい、あの方の本質は光なのだと思います。ですが、先ほどはまるで嵐のようでした」
「嵐とは言い得て妙だね。しかし風を宿しているのは僕なんだが」

わかっております、とセラは珍しく子どもらしい物言いをした。ルックも冗談だよと返す。
そして気付く。今、自分は笑っていなかったか。
こんな些細な会話で。

「……まったく。勝手に見てんじゃないよ……」

もうこの場にはいない、懐かしくも初めて会った友人に対して語りかけた。




セラが思い出したように窓の外からルックへと目線を移した。シャラと頭の動きを追って髪飾りが鳴る。

「ルック様のようだと、言われました」
「え?ああ、さっきの話かい」

セラを見た青年は何を思ったかルックの妹かと尋ねてきたのだった。
少女はこくりと頷き、おずおずと小さな唇を動かす。

「はい。……あの、ルック様。そうなのでしょうか」
「……。セラはどう思うんだい」
「セラは。……そうであればいいのにと」
「……じゃあ、そうなんじゃないか」
「いいのですか」
「僕が許すことでもないよ。そもそもあいつがそう思ったというだけの話だ。そのことにセラが不快に思わないなら僕はそれでいい」
「はい。セラも、ルック様が不快に思われないならそれがいいです」
「……思わないよ」
「はい」

セラの頬がうっすらと色づく。陶器のように白い肌なので色の変化がわかりやすい。が、こんな彼女の顔は見た記憶があまりない。
あの青年の何気ない一言がセラの心を動かしたのだろうか。相変わらずというか、どこのユウリも似たもの同士ということか。ユウリという人間は人の心を容易に掴む。自分にはできないことだ。それにしても。

「逃げていいなんて言った、あいつ……」

何故か、あの言葉が頭から離れない。
逃げるなんて選択。そんなこと。

「ルック様?」

自分の呟きに、少女は耳ざとく反応し、小さな足音を立てて近づいてくる。そしてじっとこちらを見つめながら首を少し倒した。
ルックは隣に来たその淡い銀の髪を撫でて問う。

「セラ。君は、この世界が好きかい」
「……この世界のことは、よく存じません。ですが、ルック様のお傍は、好きです。この塔も、レックナート様も」
「……そう」

セラにとって今の世界はこの塔の中だけだ。かつてのハルモニアでの出来事について彼女は語らない。話して楽しい記憶であるはずがなく、聞くつもりもないのだが。

「ルック様は、この世界をどう思われているのですか」

青の瞳が瞬いて尋ねる。セラは何か深く考えて問うてるわけではないだろう。きっと純粋に自分の答えを聞きたいのだ。

「僕は……この世界にある全てのものが嫌いなわけじゃない。だからこそ……」

そこで言葉を止める。
紋章に支配されるこの世をとてつもなく憐れに思い、また、そんな紋章の存在に辟易としていた。この、自らに宿る紋章もまた。
そして時折垣間見える灰色の未来の姿に吐き気を覚えるほどの憎悪と恐怖と、悲哀を感じていた。
人の意思とは無関係に、これほどまでに個々の人生に関わり動かし翻弄させておきながら、尚、人の世に干渉してくる。

どうすれば、あの未来は覆るのだろうか。
方法は、一つある。紋章の支配から、あの灰色の未来から、逃れる方法。
しかし。しかし、あまりに代償の多い手段。けれど、それでこの世界の存続が守られ、これからも多くの人の営みが続くのであれば。

「ルック様」

思考を穏やかに遮られ、声に導かれるままに視線を移す。

「なんだい、セラ」
「私、ユウリ様もきっと好きになります。ルック様が好きな方ですから」
「……好きっていうわけじゃないよ」

セラは不思議そうな顔をしている。子どもは素直だ、わざわざ自分あてに訪ねてきた人物なのに好きではないのかと疑問に感じているのだろう。

「ただ、あいつは嫌になるくらいお人よしで、おせっかいで、貧乏くじばかり引いて……だから放っておけなくて」

あいつが。あいつらが笑っていられればいいと思って。笑っていられる世界が在ればいいと思って。
ああ。けれど彼はここにいる間ずっと笑っていたな。
そして。

「あいつらも笑っているのか……」
「あいつ、ら?」
「……ああ。ちょっとね。昔の知り合いのことだよ」
「ほかにもお友達がいらっしゃるのですか」
「お友達……そんな可愛いヤツらじゃないよ」

ふふっ、とセラが笑った。自分が言うのもなんだが、セラは表情が豊かなほうではない。そんな彼女の笑顔は小さな花が綻ぶかのようで、いつも自分の心にあたたかいものを灯す。

「ルック様がそのように仰る方たちをセラは知りません」

紹介してほしいとは言わない。セラは賢い子だ。そして、我の強くない子だ。その彼女が興味を示す対象か。

「……いつか一緒に会いに行くかい」
「いいのですか?」
「別に出し惜しみするようなヤツらじゃないよ。……約束させられたしね」

どさくさに紛れてとんだ約束をさせられたものだ。思い出すと軽く頭痛すらする。ここしばらくこんなに声を張り上げたこともなかったから顎も疲れた。まったく慣れないことはするものじゃない。

きゅ、と右手が握られる感覚に目線を落とすと、セラが小さな手で自分の右手を掴み、心配そうにこちらを見上げていた。
ここに来た頃は感情を表に出すことをしない子だった。いや、できなかったのか。僅かながらでも表出できるようになったのだなと的外れな感想を抱く。

「ルック様。セラは、ルック様の望まないことは望みません」
「……セラ」

この数年間で一番呼ぶ名前だ。そして向けられる控え目ながらも瑞々しい青は、この世で一番美しいとさえ思う。

「君がしたいことを自由にすればいい。君はそのためにここへ来たのだから」

小さな拳に力が込められた。

「では、セラは。セラは、ルック様のお傍にいたいです。いても、いいのですか?」
「……そう。それが君の望み。……もちろんだよ」

心に優しい感情が満ちる。

右手のささやかな熱を軽く握る。
自分の無骨なグローブにすっぽりと隠れてしまう少女の手は、いま自分を必要としている。

「そうだね……。僕もいま幸せなんだろう……」

セラはルックの呟きに、やはりどこか不思議そうな表情を浮かべていた。




窓の外へ視線をやると、太陽の残照が空と湖面に揺らいでいた。
鮮やかに色づく世界。まもなく訪れる群青の世界。そして漆黒の闇夜。どれも世界を彩る美しい色だ。
時折白昼夢のように現れる灰色の世界。それは幻だろうか。幻と、なるだろうか。

ユウリ。君のめちゃくちゃな言葉の数々が僕の心を揺らす。

まだ答えは出ない。でも。




風が、吹いた気がした。
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