「紋章に打ち勝つことができる……」

ルックは独り言のように呟く。テーブルに乗せられた両の拳に力が込められ、皮のグローブがギュと鳴った。

その様子を見て僕は首を傾げる。

「でも……僕が言われたのは、輝く盾の紋章と黒き刃の紋章がひとつにならなくても生命を削るのを止めたってことだけだよ」
「……え」
「僕とジョウイが受けてた呪いって、始まりの紋章の呪いの一端でしょう?」

僕とジョウイが真の紋章の片割れの呪いから解放されたからと言って、ふたつの紋章が存在し続ける限り始まりの紋章の呪いが消失したわけではないだろう。逆に、ユウリが紋章をひとつにしたからといって呪いが消えたとは考えられない。 特に誰と話したわけではないが、そう考えるほうが自然だ。

きっとルックならそんなこと百も承知。
そう思っていたのだが。
何故だかルックは紋章に打ち勝ったということに固執している。

「えっと。僕、変なこと言ってる?」
「……でも君は実際に呪いから解放された……」
「確かに命を削られなくなったってことは僕にとって良いことだったんだけど。僕が紋章に打ち勝ったのだとして、それは根本的には解決したことにはならないというか。幸せって人それぞれだし、紋章が必ずしも絶対ではないと思うし。ええと、なんだかわからなくなってきたな」

ルックは僕の要領を得ない話を微動だにせず聞いている。困惑の瞳がじっとこちらを見ていた。少し緊張する。

「こっちのユウリだって皆に囲まれてよく笑ってるし。ラウも僕の世界のラウとは違う道を歩いているみたいだけど、なんだか楽しそうだし。や、僕の世界のラウだってきっと幸せだと思うんだよ。ああ、もうほんと何言ってるんだろ」

僕は自分の語彙力の低さに呻いて頭を抱える。
ルックの顎が上がり、薄い唇が開いた。

「あいつら……。あいつらも笑っているのか……?」
「あいつらってラウとユウリ?うん。僕はずっとからかわれっぱなしだ」
「紋章の呪いを受けながら?」

どうしてそういう発想に傾くんだろうか。僕にはそれがわからない。ルックのことだから大方難解なことを考えているんだろうけど。

「ルック。真の紋章を持っていたら笑うことができないの?」

僕の言葉の意味が通じていないのかルックは僕を凝視したまま答えない。僕らの会話はさっきから噛み合ってないな。

「じゃあさ。ルックは幸せじゃないの?」
「僕の話をしているんじゃない。君の話だ、君とユウリの!」
「なら、答える。僕もユウリも笑ってる。とても単純なことだよ、ルック」

そう。とても単純なことだ。僕は笑ってる。ユウリも笑ってる、ラウも。そして。

「ルックだって同じじゃないか」
「なに……」
「さっき、セラといた時の君はすごく優しい表情してた」

びっくりするくらい穏やかな目をして彼女を見ていたじゃないか。
ルックは2度3度と瞬きを繰り返す。自分では気づいていなかったのか、それこそ驚きだ。

「人が笑うのはさ。真の紋章を宿しているからとか宿していないからとか、そういう理由じゃないよね。きっと」

ルックは僕の言葉に小さく首を振る。

「君は……君はなにも知らないんだ。知らないからそんなことを。アレがある限り人は……」

そうだね。ルックの言うように僕は真の紋章の呪いを知らない。それとも、ユウリやラウたちすら知らないような何かがあるってことなのか。それこそ僕が知るはずがない。
でも、わかることだってある。それで僕は十分だ。足りないっていうなら持ってる情報を渡せってんだ。

と、本来なら明るく言ってやりたいところだが。
ルックは憔悴しきった顔を露わにしていた。

どうしてそんな顔をしてるのルック。いつもの毒舌はどうしたのさ。僕に易々とそんな顔を見せていいのかい。
君のそんな力のない声は、弱々しい瞳は、痛々しい姿は見たくないよ。
君が僕にあの言葉をかけた時。ひょっとして君も同じように思ってくれたんだろうか。

だとしたら、今度は僕の番だ。

「ルック」

ルックが視線だけをこちらに寄こす。そうだ、僕の声を聞け。

「逃げてもいいんだよ」

「……な」

「ルック。逃げてもいい」

君が僕に言ったんだ。逃げてもいいって。僕はその言葉にどれだけ救われたか。
だから今度は僕が君に伝えよう。
君が何に迷っているのか、何に苦しんでいるのかはわからない。
でも、きっと。いつだって逃げていいんだ。
結果、何かを失うことになってしまったとしても。後悔することがあったとしても。
一瞬でもいい、君ががんじがらめになっていることから逃げ出すことが必要な場合がある。きっと。
無責任な言葉だろうか。それでもいい。もっと言えば逃げたって逃げなくたっていい。今この瞬間、ルックが逃げるわけにはいかないと思っている呪縛から逃れることができるなら。
ルック。伝わるだろうか。僕が君に救われたように、この言葉が君を救うものとなるだろうか。
そうなればいいと強く願う。

「……何を……言っているんだ、君は……」

呆けたような声。これがルックなのかと疑いたくなるような力の抜けた声だった。
緑の瞳の色が滲んで、まるで途方に暮れているかのように見える。

「一度全部放りだしちゃえって言ってる」
「君がそれを言うのか、君が……!」
「僕は言えるよ、ルック」

ほんの少し不思議そうな顔をしたルックに僕はただ微笑み返す。
目の前のルックは僕が逃げたことを知らない。もっとも教えるつもりもないが。

「ルックが望むようにしたらいい」

ほとほと困り果てたような目をして僕を見ている。本当になんて目で僕を見るんだ。
テーブルの上に置かれたルックの手の上に自分の手をそっと置いた。いつもならすぐさま振り払うだろうに、ルックは気付かないのか僕の目をじっと見たままだった。僕も逸らさずに、言葉を重ねる。

「僕はルックが何をしようと受け入れる」
「僕が……何をしようとしているか知らないくせに……」
「知らないけど、ルックが望むならそれでいい」
「僕がそれを止めたらどうなるか」
「それもルックが決めたことだから、いい」
「君、バカだろう……」
「ルックにそう言われるの久しぶりだ。バカかな。うん、でも僕はただルックが笑っていられたらいいんだ」

ふっとルックの目に光が戻る。そしてパチパチと瞬きを繰り返した。ようやく自分の手の上に重ねられた僕の手に気付き、慌てたように手が引かれる。

「……な、なんだそれは……」
「なんだろうねえ。バカだってなんだっていいんだ。ルックが笑っていられるなら、それで」
「僕が……?君は何を言っているんだ」

ルックの眉が難しそうに寄せられる。
僕もルックは何を言っているんだと言いたい。僕は至極簡単なことを言ってると思うんだけど。

「勝手なのは百も承知。僕はルックが笑っていられる選択がいい」

君は冷たい視線と態度とを常にしているけれど、決して冷酷な人じゃない。突然やってきた僕を憎まれ口を叩きながらもちゃんと相手してくれるじゃないか。そして一緒に考えてくれた。
そんな優しい君に笑っていてほしい。セラと向かい合っていた時みたいな穏やかな表情をしていてほしい。こんな、一人で悩みを抱えているような顔はしてほしくない。
君を慕う人間が、すぐそばに、そしてここにもいるんだよ。

「―――は」

ため息とも笑いとも取れるような声がルックのぽかんと空いた口から出た。

「ああ……なんか君と話してると悩むのがバカらしくなるな……」

ルックの全身の力が抜けて、額が組んだ手の上に落ちた。そして顔が上がり、ルックの強張っていた表情が緩んだ。

「ほんとバカだな」
「……僕もルックも?」
「君と同じにされるのは不本意だけどね」

そう言って、ルックは目を細め、ほんの少し口の端を上げた。
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