しばらく声が途絶える。しかし、僕は目を瞑ったままなので、その沈黙の時間が長いのか短いのかもわからなくなってくる。もしかして僕は話の途中に寝てしまっていてクラウスはもう帰ったんじゃなかろうかと思った頃、彼の声がした。良かった、僕はまだ起きていた。
「ユウリ様。私は、あなたの世界でもうひとりの自分もあなたに仕えていたことを知って嬉しかったんですよ。そして、あなたが私を見つけては笑い、お茶に誘ってくださることも、本当に嬉しくて」
僕はどこの世界のクラウスに会っても、きっとお茶に誘うよ。「喜んで」と笑って言ってもらうために。
「私はシュウ殿やラウ殿にはかないません。あの方たちのようにユウリ様を支えることはできないでしょう。でも、……戦中は正直複雑な思いも交じることもありましたが、あなたと関わるうちに私のほうが力はないのにあなたを守りたいと思うようになりました。戦後もその思いは変わらず、いえ、増すばかりで。私は心配なくらいなんです。私はユウリ様という主人を失ったら、この国のために働けるのだろうかとそんなことを考えるくらいに」
クラウスの告白は僕の熱に浮かされた頭にも十分衝撃的だった。
「ユウリ様?失礼を承知で言わせていただきます。あなたも同じです。私とほとんど変わらない背丈に成長されたあなたと出会っても、やはり、あなたを守りたいという気持ちが湧きました。ユウリ様、あなたはどこまでもユウリ様です。そして、私を慕ってくれる、かわいい弟のような存在なのです」
目を開けて、クラウスの目を見て話したかった。でも瞼がとても重いんだ。そういえば段々と感覚が遠のいている。こんなときに眠たくなっているなんて。伝えたいことがたくさんあるのに。
あなたは今までも十分に僕を支えてくれています。あなたが僕のこと考えてくれていること、知っていたよ。でも、言葉にされてはじめて実感が湧いて、そしてようやく理解できた。
ごめんね。そして、ありがとう。
クラウス。貴方の声はちゃんと僕に届いているよ。
そして、僕の声も貴方に届いていたんだね。
「ユウリ様。起きてらっしゃいますか?……もし聞こえていたとしたら、目が覚めたときには忘れていらっしゃるといいのですけど。もしくは夢の中の出来事だと」
僕は目が覚めたら忘れてしまっているのかな。夢だと思ってしまうのかな。
それは少し残念な気がする。でも、そのほうがクラウスにとっていいのなら構わない。それでもきっと、クラウスの心が伝わったこと、僕の心が伝わっていたことは僕の当たり前になっているから。
でも、そうか。クラウスにとっても当たり前になるように、僕も目が覚めたら口に出して伝えなきゃいけないな。
早くよくなってくださいね、クラウスはそう言って、最後に頭を撫でてくれた。
お兄ちゃんに頭を撫でてもらうってこんなだろうか。僕はそんなことを考えてまた眠りに就いた。
***
夢と現の境が曖昧だ。いま僕は起きているのだろうか。
わきわきと手のひらを握ったり開いたりしていると、その手を取られた。手の先を辿り、やがてラウ=マクドールの顔へと辿りつく。そこで、これは現実だとわかった。
僕が夢に見るとしたら僕の世界のマクドールさんであって、そして彼はきっと僕の手を取らない。取るとしたら、それはこっちの世界のラウ=マクドールなのだ。
いや待て。ひょっとするとそういう夢を見ているとか。願望が夢となって出てきているとしたら、なんだか僕の世界のラウに申し訳ない。
何を考えているのかよくわからなくなって、ぼんやりと視線を外さずに見つめていると、ラウは「起きてる?目、覚めてる?」とそろりと伺ってきた。
「ラウ……?どうしたの」
「どうかしてるのは君だよ。熱、どうかなって見にきた」
ピン、と軽く額を弾かれる。痛くはないが、軽く視界が揺れる。
「え?うわ、ごめん。だ、大丈夫?」
「んー……」
目をぎゅうと瞑って落ち着くのを待つ。
「本当にごめん、僕が悪かった」
心配そうに髪を撫でる手に、何かを思い出した。僕の様子にラウが気付き、どうしたのかと尋ねてくる。
「え、と……クラウス、いなかった?」
「いや、いなかったけど。彼がどうかした?」
「たぶん、いてくれてたんだ。いつだったか覚えてないけど……」
「ああ、だから寝間着が新しいんだね」
額には汗が浮かんでいたのに寝間着が乾いていたことを説明してくれる。
僕は着替えをしたのか。……したような、しなかったような。記憶が曖昧だ。でも、クラウスはいた。
視線を彷徨わせていると、ラウが「そうだ」と声を上げた。
「ユウリ、喉乾いてない?」
僕は「喉」とオウム返しして、それから「乾く」と答えた。
幼い子どものような端的な答えにラウが苦笑する。
「果物を持ってきてたんだ。身体を冷やすかとも思ったんだけどね……口当たりが良いかなって。起きれる?」
手が背に差し入れられるが、身体を起こすのは億劫だった。でも果物は食べたい。
一向に起きようとしない僕の顔をラウが覗き込んできた。目が合ったところで、口をぱくんと開いた。
「……ええと。むせない、かな」
僕の行動の意味を理解して心配そうに言うラウに、気にするなという意味を込めて、口を開け直した。
おそるおそるといった風に果物が一切れ口の中に運ばれる。そういえばラウ=マクドールが誰かの世話をしているなんて変な感じだ。どちらかといえばラウは誰かにお世話されている姿のほうが想像しやすい。なにせ黄金の都グレッグミンスター出身の本物の貴族だ。
幾度か咀嚼したあと飲み込み、笑ってみせる。おかしいという気持ちと、美味しいという気持ちと、両方伝わるだろうか。
「君のそんな力のない笑顔はなんていうか……堪えるなあ」
ラウの言葉の意味はいまいちわからないが、僕の意図したことは伝わっていないのは確かだ。
軽く伏せられた目を追って見つめていると、こちらへ視線が戻される。反射的に口を開いた。
ふ、とラウが笑う。
「雛に餌をやる親鳥の気分だよ」
なんて表現だ。
でも言い得て妙だと少し感心してしまい、悔し紛れに早く次の果物を入れろと口を開けてせがんだ。
頭を優しく撫でられて、僕はまた眠くなってきていた。うとうととしながら話を続ける。
「今日、頭たくさん撫でられてる……」
はは、と笑い声が頭上でする。
「でも君はよく撫でられてるんじゃないの?」
「え……どうかな……すごく久しぶりな気がするよ」
ラウの手が一度止まるが、すぐに動きを再開させる。
「そうか……。君は可愛がられているイメージあるけど、本当は甘え下手だったね」
そうだろうか。昔はともかく今ナナミやジョウイに頭を撫でられるなんてことは確かにないが、誰でも大人になると頭を撫でられる機会というものはなかなか得られないのではないか。
「僕は普通じゃないかなあ……」
「そう思っているところが君の問題点だ。君は我慢することに慣れ過ぎているんだよ」
「我慢、も、皆してることでしょ……」
「君のは過度。それに気付いてないところが僕は心配だよ」
「ラウに心配されてもなあー……」
ぴくりと指先が強張るのがわかった。
「……そうだね。僕が君にできることなんてたかが知れてる」
ラウの発言に僕はぼんやりと目を開ける。
「ラウ」
手招きをすると、うん?と顔を近づけてきた。その彼の頭へ僕はぽとりと手を乗せる。僕がラウの頭を触る日が来るなんて思わなかった。手の触れる髪の感触は思ったよりもしっかりとしていた。
ラウの目が丸くなっている。僕は笑顔を向けようと思ったけれど、うまく笑えたかどうかはわからない。
「貴方がこっちの僕のそばにいてくれて良かったと思ってるよ。だからユウリは笑っているんだ」
気付けばユウリのそばにいるラウが何かと心配りしてくれていることを僕は気付いていた。そばにいて当たり前の存在とは、心安らぐ存在であるのと同じだ。僕にとってナナミとジョウイがそうであるように、ユウリにとってはラウであるのだろう。
ラウの表情が和らぐ。
「君にそう言われると自信がつくよ」
「うん。自信もっていいよ、僕が言うんだから」
「僕は君に甘やかされているな」
「僕?ユウリ?」
「君たちに」
ふぅんと適当に相槌を打つ。ラウの言うことは難解なことが多い。今の僕の状態でその意味を考えることは無意味だと思い、僕は早々に考えることを放棄した。
「……ユウリはね、僕を甘やかすことが楽しいみたいだ。いや、僕が甘える姿を楽しんでいるのかな」
どう違うのか、その差がいまいちわからない。
「甘えられると嬉しいって前に言ってた。君もそうなんだろうね」
「えええー……どうだろう……」
「それで、僕は君も甘えればいいんだって言ったんだ。そうしたら甘えるより甘えられる方がいいって言ってた」
甘えるより甘えられる方がいい。言われればそうかもしれない。僕はナナミの無理難題に応えるのをなんだかんだ言って楽しんでいるし、責任感の強いジョウイが頼ってくれたりすると嬉しくてすごくやる気が湧く。
「初めて知った?」
「そうかも……」
段々と話すのがしんどくなってきて再び瞼を下ろす。すると、ラウの手も再び髪に差し入れられる。
さらり、と指の間を髪が通っていくのが気持ちがいい。
「君は自分のことを知らなすぎる」
「……ラウは、ユウリのことよく知ってるよね」
「僕は彼のことが好きだからね。だから知ろうと努力したんだよ」
知る努力。好きだからこそできること、なるほどそうかもしれない。
「君は自分を知ることから始めないといけないみたいだ」
なに。
「君は驚くほど自分のことを知らない。たぶん君は、……自分を受け入れるより先にナナミと幼馴染殿を受け入れることを優先したんだね」
優しい手がゆっくりと頭上を行き来する。
「君は優しい。でも、頑張りすぎる君は哀しいよ」
そう言われて、なぜだろうか胸が締め付けられた。
長い時間ごめんね。熱が上がらないといいけど、と言って、額に手を当てる。
そして告げられた一言。
「……辛いね」
突然。本当に突然。
僕の目から涙が零れ落ちた。
泣くようなこと何も言われていないし何も起こっていない。
なのに、熱い涙がせきを切ったように溢れ出す。
きっと僕は熱にうかされているんだ。でなきゃ、こんなのありえない。
ラウは何も言わず、涙を拭うでもなく、ただ頭を撫でてくれていた。
目元も身体もどこもかも熱い。熱のせいか泣いたせいか、僕は疲れて果てていた。いつ眠ってもおかしくない状態で、すでに意識も朦朧としている。
もうラウも部屋に帰っていいのに。僕が急に泣いたせいで帰る時期を逸してしまってる。
「ユウリ。僕が前に言ったこと、覚えているかな。僕は、君のことも知りたいんだよ」
だからこんなことは努力のうちに入らないのさ。
そう言って彼は笑った、気がした。