「ユウリ殿」

僕はいまだにユウリのそばにいる際に彼へかけられる呼び掛けに慣れていなかった。ここでは僕を呼ぶのは、ごく限られた人しかいない。だから通常この名前を呼ばれるとすれば、国王であるユウリである。そうわかっているはずなのに反応してしまうのだ。もはや脊髄反射に近いものがある。
そして今も。
いや、僕は反応するどころか勢いよく振り向いた。

「……リドリー将軍……」

僕の呟きにリドリーのピンととがった三角の耳が僅かに動き、次いで顔がこちらを向く。10メートル近く離れた場所からこの音を拾うとは。聴覚の良さはさすがコボルトといったところか。
リドリーの目線にユウリが気付き、フォローを入れてくれる。こういう風景は珍しいことではなかった。

「あー、彼は僕の友人なんだ。戦中にこの城に滞在していたこともあって。それでリドリーのこと覚えてるんだと思う。僕もいろいろ話したし」
「それはそれは。一体私の何をお話しなされたのですかな?」
「あははは」

リドリーは優しい眼差しをユウリへ落とした後、こちらを見て丁寧に会釈をした。僕も慌てて頭を下げる。そしてそのまま顔が挙げられなくなった。
急速に指先が冷たくなっていく。それを自覚した僕は指をギュッと固く握り込む。

そうか。ここはリドリーが生きている世界なのか。




『リドリーが戦死した』

『最後までお前を探して』




あの時のすべてが真っ黒に塗りつぶされるような絶望感が胸をよぎる。
いくら時が経っても、思い出せば頭の芯がスッと冷えた。消えることのない罪悪感。これはナナミを一度喪ったと思った時にも感じなかったものだ。




リドリーは僕が殺した。




ビクトールは気にするなと言った。リドリーは軍人で戦士だった、と。
その言葉の意味することは理解できた。僕だってあの戦争の中で命を失う可能性について常に考えていたし、覚悟もしていた。

しかし。
リドリーは僕を救い出すために最期までティントにとどまった。いるはずのない僕を必死に探して探して。
なぜ姿がない。なぜ見つけ出すことができない。なぜ、なぜ。

なぜなら、僕はそこにいなかったのだから。

ゾンビたちが次々と襲ってくる中、それでも諦めずに彼は僕の姿を探し続けた。




トゥーリバーで人間・コボルト・ウィングホードの三種族が力を合わせてハイランド軍を退け、和解をしたのちに彼は言っていた。襲撃をうけたとき、コボルトの誇りにかけて降伏の選択はなかったものの、それでも勝利することはできまいと覚悟を決めていたのだと。
「けれど、貴方は決して諦めなかった。トゥーリバーを、我らを救おうと、先頭に立って戦ってくださった。本当であれば、貴方は新同盟軍軍主として一番に安全な場所にいなくてはいけなかったのに、我らを置いて逃げることを良しとされなかった。それが軍主の行動として正しかったかと問われれば、否と答えざるをえません。……しかし、あのとき貴方がいなければ、我らは心をひとつにすることはなかったでしょう。ですから貴方には感謝してもしきれないのです。ユウリ殿。きっと私も新同盟軍のために、……貴方の御為に働いてみせましょう。決して、諦めないとお約束致します」
そう、彼は黒い瞳を力強く煌めかせて僕に誓った。

そして。彼はその言葉どおりに行動した。




リドリーは最期に何を思っただろう。僕が見つからなかったことを、僕を救い出せなかったことを悔いたのではないか。己を責めたのではないか。
頑固で、真面目で、律儀で。仲間を守ることについて熱い信念を抱いていた。僕はリドリーがそういう性格であることを痛いほど知っていた。にもかかわらず。
僕は彼の信頼を裏切った。

責められるべきは間違いなく僕だ。 あの時逃げることを選んだ僕。あなたのせいで、と言ったアップルは正しい。
ナナミは自分が逃げようだなんて言ったからだとひどく責任を感じていたが、彼女のせいなんかじゃない。僕があの科白をナナミに言わせたのだ。僕が言わなかったから、彼女が言った。僕のことを一番に考えていてくれた彼女だからこそ。僕がナナミにそう言わせ、そして去ることを選んだのだ。
すべては僕が招いたこと。
僕が逃げたせいで、リドリーはあの地から離れることができなかった。僕は彼を置いて逃げたのに、彼は僕を救おうとしてくれた。僕はリドリーが一度決めたことを覆すようなヒトではないと知っていた。なのに、なぜ、なぜ、あの時そのことに気付くことができなかったのか。
わからない。今考えても、なぜ、としか言いようがない。

一体いくつの可能性があったのか。偶然か必然か。僕にとってユウリにとって。この世界に来てから何度も繰り返している決して答えのない問い。それでも考えてしまう。

僕はどうすれば良かったのだろう。




二度と聴くことはないと思っていたリドリーの低いけれど滑舌のよい話声。
僕は嬉しさや懐かしさよりも悔しさに襲われ、絶対に表に漏らすまいと目と口を固く閉じた。
まぶたの裏が真っ赤に染まる。

悔しい。

僕にはナナミと逃げる選択しかなかった。その結果、リドリーは亡くなった。それが事実。
けれどこの世界でリドリーは生きている。笑っている。ユウリに、微笑みかけている。
僕には決して向けられることのない、優しく温かい眼差しを向けて。

「ご友人」

はっとして顔をあげる。いつのまにか出ていた冷や汗が、髪の生え際から毛先へと伝い落ちる。

「よき滞在となりますよう」
「……ありがとう、ございます」

にこりとユウリに友人であるという僕に笑みをくれた。細めた目尻と上がった口角に、昔はなかった深い皺が刻まれている。
胸が締め付けられ、一瞬呼吸を忘れる。
たまらなかった。

「……失礼します」

僕は辛うじて声を絞り出すと、頭を軽く下げてそのままこの場を去る選択を取った。




これ以上は笑うことができなかった。
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