当てがわれた4階の部屋から出て、えれべーたーを待つのが面倒で階段を数段降りたところで膝がカクンと折れた。
「あれっ」
僕は間抜けな声をあげて、そしてそのまま階段を転がり落ちた。ここの階段は螺旋を描いてないので、踊り場までは一直線だ。肩が壁にぶつかって止まり、ごろりと仰向けになった。
「……あれー?」
痛みを感じるより先に、落ちたことが不思議で再び間抜けな声を出した。うっかりにも程がある。
そして起き上ろうとして、体に力が入らないことに気付く。
なんだ、一体どうした。
しかし頑張る気も起こらずしばらく無様に転がった状態でいることにした。
幸いなことに、ここ3階と4階を繋ぐ階段は、えれべーたーを使う人のほうが多いため人気があまりない。だから誰にも見つからないだろうと思っていたら、それからほどなくして僕を見つけたのはよりによってラウだった。
5階のユウリの部屋から出てきてそのまま階段を下りてきたようだ。
なんでえれべーたーを使わないんだ。
人のことは言えないが。
「熱、って……僕が?」
僕は医務室へ運ばれ、ベッドに横になっていた。
情けないことに僕をここまで運んだのはラウだ。肩のみを借りようとしたのだが立てなかった。よもや大して変わらない体格となった今になって、トランの英雄に背負われる羽目になるとは思わなかった。
しばらくしてユウリも駆け付けてくれた。仕事のある身で僕を構ってる場合じゃなかろうと思うが、ユウリの何か言いたげな目に口を噤んだ。大体、仕事の調整くらいしているだろうから僕のいらぬ心配に違いない。
僕は階段から落ちたものの、無意識のうちに受け身を取っていたようだ。四肢と背中に軽い打撲とかすり傷がいくつか。
さらにホウアン医師から意外な言葉が告げられた。熱があると。
やっぱり、とラウが言う。
「僕が見つけた時もなんかぼんやりしてたから頭でも打ったのかと思って近づいたら、身体が熱かったから」
はて、そんなにぼんやりしてただろうか。記憶は確かなのだが。
「ちなみに何度?」
横にいたユウリがホウアンの手元の体温計を覗きこむ。 水銀の目盛りを確認し、顔を歪める。
「うわ。39度4分だって」
マジですか。
その数値を聞いた途端に自覚する。ものすごく、寒い。
身体中が震えだし、掛け布団を肩上まで引き上げた。
「……寒いのですか?」
僕の震えている様子を見てホウアンが窺ってきた。コクコクと頷けば、横になっていながらも頭がフワッとする。その浮遊感が気持ち悪くて、両目をきつく瞑ってやり過ごした。
「この調子ですとまだ熱が上がるかもしれませんね。とりあえず今日はここで寝ていましょうか」
えー、という反論はホウアンとユウリとラウの三人の沈黙により抹殺された。
どうせ寝るだけなら自室で、と言おうとしたところで、ユウリから冷やかな視線を投げられる。
「そんな状態で部屋に戻られるほうが迷惑だよ。気になって仕方がない」
すみません。大人しくしています。
遠くで戸棚を開け閉めする音が聞こえる。そして瓶や缶の鳴る音。さきほど震えている僕へ毛布を持ってきてくれた看護師かもしれない。
ベッド周囲はいったん人がいなくなり静まり返っていたため、小さな音もよく響いて聞こえた。でも音が全くしないよりも、何か物音なり話し声なりが聞こえている方が落ち着く。
は、と吐く息が熱い。でも毛布を肩から下げるとすぐに寒気を感じる。熱いやら寒いやら忙しい。
それにしてもまさか熱を出していたとは。
さっきまで普通に歩いていた僕はなんだったんだ。今では強い倦怠感に襲われて動くことが億劫になっていた。病は気からとはよく言ったものだ。この場合意味合いが逆だが。
身体と接している部分の布団が体温で熱くなったので冷たい面を求めて少し動いてみる。衣擦れの音がやけに大きく響く。
身体を休めるには刺激となるようなものは少ない方がいい。でも、僕はこの静かな環境は今の自分の精神にとってはよくないものであると感じていた。
じわじわと、自分が弱気になってきていることが怖かった。
さっきは皆が周囲にいたから軽口をたたくことができていたのだ。一人になっては心が無防備な状態になり、否応なく脆さがむき出しになってしまう。こんな時に誰かが来たら熱に浮かされて何を話すかわかったものじゃない。あとで後悔するようなことを口走ったらどうしたらいい。
熱の膜が張ったような手を握りこもうとするが力が入らない。手のひらが情けないくらい弱々しくシーツの上へ落ちた。
ぼんやりと天井を見上げていると、ここ数日考え続けていたことが思い出される。というより、それしか思い浮かばなくなってくる。
僕はグリンヒルから戻ってから、暇つぶしを兼ねて城内を歩きまわっていた。
そのうちに僕はあることに気付いた。僕の世界では戦中に亡くなっている人がここでは存在し、逆に、生存している人が亡くなっていることがあることに。よく考えればなんら不思議なことはない。現にナナミとジョウイという自分に近い人物がそうではないか。
急に、このままではいつか見てはいけないものを見てしまうのではないかと怖くなった。それでも僕は甘かった。いや、浅はかだったのだろう。これ以上の大きな違いなどないと、きっと心のどこかで思っていたのだ。だからその証明が欲しくて歩き続けた。自分に都合のよい証明を探して。
見たくないものから目を逸らそうとしていた。
口腔内の熱さに喉の渇きを覚えたが、水に手を伸ばすのも面倒で諦める。身体の熱とだるさにどうしようもなく思考がひっぱられる。
目を開けているのも億劫になって瞼を下ろし、僕はとうとう意識を手放した。
閉じた瞼の裏に、再開した彼の人の姿が焼き付いて離れない。
彼は僕へ向けるはずのない笑顔を浮かべて、そこに立っていた。