「今までほとんどの大規模な会議はミューズで行われていた上に、グリンヒルで開催されるのは初めてのことなんですよ。ですから、いつもはもう少し静かな街なのですけど、もうお祭り騒ぎです。学生たちも開催に際してたくさんのアイディアを出してくれて……」
テレーズ=ワイズメル。
この世界で彼女は戦争後、グリンヒル市長の座に就いている。
僕の世界では、デュナン共和国初代大統領の任に就いた女性である。
僕の記憶の中では、テレーズはグリンヒルという街をとても愛していて、グリンヒルとその市民を守ることに使命と幸福を感じているような人だった。
そして、それはこちらの世界のテレーズを見ても同じように感じる。
目の前でグリンヒルについて笑顔で話す彼女を見ていると考えずにはいられない。
テレーズはグリンヒルで、市民に慕われながら市政に携わっている方が幸せなのではないか。
僕の世界で大統領にならざるを得なかったテレーズ。彼女は今、幸せだろうか。
「……テレーズさん」
「はい?」
「あなたは……とても幸せそうに見えます」
「ふふ、そう見えますか?それはとても嬉しいことですね」
「例えば」
突然国王もしくは大統領になれと言われたら、あなたはそれを受け入れられるのでしょうか。
あなたは優しいから、自分しかいないと言われれば引き受けるかもしれない。
でも、それであなたは満足ですか?心残りや後悔はないのでしょうか。
「例えば。……ユウリやシュウに、グリンヒルを離れて何か別の任務を命じられたとしたら。あなたはどうすると思いますか……?」
「まあ。それはとても光栄なことですね。喜んでお引き受けします」
彼女は瞬きをひとつしたあと、迷うことなくそう答えた。
僕は正直驚く。嫌だと言うとまでは思わなかったが、少しは考えて慎重な答えを出すだろうと思っていたのだ。
「で、でも、あなたはグリンヒルを愛してますよね?ここを誰かに託し、去ることはできますか?嫌だなって少しも思わないんですか?」
僕の矢継ぎ早な質問に、テレーズは少し戸惑いの表情を浮かべたが、すぐに覚えのある控え目な笑みを見せた。
「そうですね。グリンヒルを私は愛しています。けれど、陛下や宰相殿が私にと申されるのでしたら、私が必要なのでしょう。それは、私にとって喜びに他なりません。私が役に立てる場所を与えられる、それは幸せなことですから」
それに、この街には優秀な者たちがたくさんいます、私の後釜などいくらでもいるのですよと笑った。
それはおそらく彼女の謙遜だ。優秀な者ならたくさんいるかもしれない、でも彼女のように市民に愛され慕われる人は、そんなに多くないに違いない。
テレーズが首を傾げ、こちらを見やる。
「貴方がなぜそのようなことを私にお尋ねになるのか、私にはよくわかりません。が、人とはそういうものではないですか?何か責任のあることを任されるとき、確かに不安もあります。でもそれを上回るやりがいや期待、何より任せられるのだという喜びが存在するのではないでしょうか。そしてそれに応えたいと感じるのでは?少なくとも、私はそう思います」
押しつけるのではなく。柔らかいが凛とした口調でそう言う彼女は、とても強く美しかった。
僕の知っていた、不安げに揺れる瞳や、自分には力がないと嘆いていた、かつての彼女の面影はそこにはない。これが、年月を経たということだろうか。それとも、これが元々彼女のもつ資質か。
そして。
彼女の答えたことは、僕に8年前、いや、9年前に僕が軍主になった時のことを思い出させた。
そうだ、あの時確かに僕は不安と混乱の内にあった。それでも、望まれて嬉しくないわけがなかったのだ。自分にできることがあるのかもしれないと。力のない自分にも、なにか。自分にはわからないけれど、それをシュウや皆が見つけてくれたのなら、と。そして、僕は周りの人たちを何より信頼していた。だから。だからこそ。
「――と、本当は偉そうなことを言えないんですけども」
テレーズは恥ずかしそうに笑った。
「私、ね。それを、9年前のあの戦争の最中に知ったのですよ。お恥ずかしい限りですが、私はその時まで自分も周囲も信じることができていませんでした。ユウリ陛下に、それを教わったんです」
僕に?いや、ユウリか。
「陛下は、あの時まだ15歳ほどでリーダーなんていう重責を負ってらっしゃいました。私、ずっと不思議でした。辛くはないかしらって。私も、……実は市長代理であることに多少疲れを感じていた時期でしたので。でも、お会いして共に過ごす内に知りました。陛下は、本当に周りの方たちを信頼してらして、だから皆、陛下を支えようと一生懸命になれました」
はい。僕は皆を信頼していました。だって、本当に皆、僕を支えてくれました。
「人は、信頼されると、それに応えようとするのです。それも自分が信じている人からの信頼ならば余計に。……貴方はそう思われませんか?」
「……思います」
僕も、皆の思いに応えたいと思ったのだから。
失礼なことに、彼女のこうした芯の強さについて僕はすっかり忘れていた。ああ、確かにテレーズなら大統領にふさわしいだろう。
「すみません。急に変なことをお伺いして」
「いいえ。私の答えなどでよろしかったでしょうか。ふふ、恥ずかしいわ」
「いえ。目が覚めた気分です。……時間は大丈夫ですか?」
テレーズが「ああ」と無意識にか顔を市庁舎の方面へ向ける。
「そうですね、そろそろ失礼致します。秘書たちが心配してる頃かもしれません」
一応心配をかけているという自覚はあるらしい。僕は苦笑を返す。
「市庁舎までお送りします」
「おかまいなく。ゆっくりしてらしてください。ここは人が来ず、静かな気持ちになりたい時にはちょうどいいのですよ。私にとって特別な場所でもあります。……ひょっとしてあなたはその理由も知っているのでしょうか」
うっかり変なことは言えない。テレーズがあの時ここに隠れていたことを知るのは限られた者のみであり、”ユウリではない”僕が知っているはずがないのだから。
テレーズは困って俯く僕を見て、肩を小さく竦める。
「……貴方は不思議な方ですね。昔のことまで話すつもりありませんでした。でも、なんというか……貴方はあたたかくて柔らかくて……ついお話をしたくなるような雰囲気をお持ちです」
「えっと、いえ、そんな。僕にはもったいない言葉です」
僕は気恥ずかしさから逃げたい気分になる。そして、早くテレーズを会議に向かわせなければという焦りも感じ始めた。
「あ、あの。お忙しい中、足をお止めして申し訳ありませんでした。どうぞ会議に向かわれてください」
「……」
会話が不自然に途切れたため、テレーズの様子を窺うと、彼女は僕の顔をじっと見つめていた。僕の視線に気づき、慌てて目線を逸らす。
「……す、すみません。不躾に……」
「いいえ。なにか?」
「その。貴方がなぜかユウリ陛下と重なって見えたものですから。おかしいですね」
ここは、僕もユウリですから、と思っておくところだろうか。
つい曖昧な笑みになってしまうのは勘弁してもらおう。
その表情をどう捉えたのか、テレーズが「まあ」と明るい声を上げた。
「ひょっとして他の方にも言われたことがおありですか?」
「ええ、まぁ、若干名に。あはは、どうしてでしょうね」
もう骨格のせいだろうと思ってしまいたい。ナナミだってジョウイだって、小さい頃と今を比べても確かに面影は残っていると感じるのだから。
ラウにはユウリと僕とを切り離せないと言われたけれど、僕とユウリの8年の経験の差はあきらかに表面にも出ている。所作や表情、雰囲気まで。
「僕はユウリみたくはなれないのに」
言って、なんてネガティブな言葉を吐いてしまったのだろうかと後悔する。テレーズだってこんなこと言われては返答に困るだろう。
訂正をしようとして、先にテレーズが口を開く。
「貴方は、国王陛下のようになる必要はないと思います」
きっぱりと告げられ、僕は言葉に窮す。
テレーズは真剣な顔で僕にさらに語った。
「貴方が必要とされる場所があって、貴方にしかできないことがあります。それは大きなことかもしれませんし、もしくはとても些細なことかもしれません。ひょっとすると気付くことすらないのかもしれません。でも、これだけは確かです。貴方がいるというだけですでに周囲に影響を及ぼしています。だって、貴方はとてもあたたかいのですから」
そこで言葉を切り、優しい笑みを浮かべる。人を安心させるような、そんな笑み。
「……ああ、だから陛下と重なってみえたのかもしれません。あの方も、今も昔も変わらずあたたかい方ですので」
僕はユウリと違っていて良いと言う。けれど、ユウリと重なる部分があると。
ラウだけでなく、あまり深く関わっているとは思えないテレーズにまで同じように言われたことに、僕は少なからず驚いていた。
森の向こうから伸びやかな鐘の音がひとつ聞こえてくる。学院では、始業時と終業時、昼休み前後を告げる鐘が鳴る。そしてそれぞれ始まる時刻の5分前に一度だけ鐘が鳴らされ準備を促すのだ。
「さきほどは申し上げませんでしたが、最初あなたを拝見したとき。なんと言うか……おかしな話ですが、懐かしさのようなものを感じました。……本当に不思議な方ですね」
突っ立ったまま返事できずにいる僕へ、「慌ただしくて申し訳ありません、失礼します」と挨拶の言葉をかけると若干急ぐように踵を返した。
が、テレーズが何かを思い出したかのように振り向く。
「あの。よろしければお名前をお伺いしても?」
「……ユウリ、です」
僕が名前を述べると、テレーズは少しも驚くことなく何故か嬉しそうに笑みを浮かべ、頷きを返した。
「ユウリ様。貴方にお会いできて良かったです。グリンヒルでの滞在が良いものとなることを願います」
そう言って彼女はひとり森の道を戻って行った。その背中は小さい女性のものであるのに毅然とした雰囲気を漂わせ、しっかりとした足取りは頼もしくすら見えた。
テレーズ。僕もあなたに会えて良かった。