翌日以降、ラウは姿を見せなくなった。はじめはそれでも気を抜くのは危険だと周囲に注意を払っていたが、現れる様子はまったくなく、僕はようやく肩の力を抜いたのだった。昨日は昨日で楽しんでいたじゃないかと言われようが、それとは別に僕はひとりの平穏な時間が真剣に欲しかったのだ。
2日、3日と過ごす内に、僕はグリンヒルの市庁舎内の図書室に入り浸るようになっていた。置いてある書物は街ごとにいろんな特色がある。ここには薬草などを取り扱う書物は少なかったが、国内外の歴史について記されたものが多く、僕は手に取ってゆっくりと読み進めていた。
ぐっと背中を伸ばし、固まりかけていた筋肉を解す。
気付けば昼を少し過ぎていて、気分転換を兼ねて何か食べに行こうと市庁舎を出た。ここへ着いてから天気はずっと晴れており、それに引っ張られるようにして僕の不安定な気持ちはなんとなく落ち着いてきていた。
ラウと話したことで、僕は必要以上に皆に気遅れをしたりしないでいいと思うことができていた。グリンヒルに来てから城の皆に会っていないが、デュナン城に戻ったときには普段通り笑うことができるはずだ。僕の抱く罪悪感は彼らにはあずかり知らぬことであり、であるとすれば、僕が勝手に彼らに負い目を感じて態度を変えるようなことは、彼らにすればとばっちりに違いないのである。彼らは優しい、だからこそ僕は心配をさせるようなことをしてはいけないのだ。
そう言い聞かせているあたり、まだ僕は完全には受け入れられていないのだけれど。そこは努力のし甲斐があるってものじゃないか。任せてほしい、ポジティブシンキングには自信がある。
一度入ったことのある店で軽く昼食を済ませ、再び外を歩く。ふあ、と欠伸をし、青空の下昼寝もいいかもしれないと思いつく。図書室にずっといると、室内時計でばかり時間を確かめることになってしまい、旅に慣れている僕からすれば妙に苦しさを感じる。空気の色やにおいの変化で時間を感じることのほうが好ましく思えてしまうのは、旅している時間が長かったからだろうか。
どこかぼんやりとできる場所はあるだろうかとあてもなく歩いてる最中、そういえばとグリンヒル学院へと足を向けてみた。
今から8年もしくは9年前になる。グリンヒル学院へ潜入し、幽霊を追って学院内を走り回ったことがある。その際に、地下室から裏の森へ続く路を探し当て、進んだ先でテレーズと出会うことができたのだ。
あの抜け道がまだ残っているかどうかはわからないが、森は残っているはずだ。あそこは当時少し鬱蒼とした暗い場所に思えたが時間帯や天気でそう思えたのかもしれない。今日みたいな天気のいい日ならばどうだろうか。
それほどに高くも頑丈そうでもない白い柵で囲まれた学院の敷地内に足を踏み入れる。歩道の両脇には芝生が広がり、市中より一層のんびりとした空気が漂う。いや、伸び伸びとした、だろうか。あちらこちらで芝生に座り込んで本を片手に学友と語り合っている風景が見られた。
学院敷地内は基本的に学生が多いわけだが、普段から一般開放をおこなっているここは地元の人も気軽に訪れる場所であり、自分が入りこんだことで変に注目されることはなかった。
問題は学院内に自由に出入りができるかどうかだ。石造りの階段を上り、入口の扉からそっと中を覗き込む。昔、エミリアが迎えてくれた受付を目をやると、やはりというか、女性が背筋をピンと伸ばして座っていた。彼女の眼を盗むのは難しそうだ。しかも行きたいのは奥の地下室。おそらく何人もの学生にすれ違うだろうし、さすがに学院内では学生以外には教師くらいしかいないので目立ってしまう。
しかしここで諦める僕ではない。
むしろ僕にぴったりな方法があるじゃないか。
「よいせっ」
若干おやじ臭い科白を口にしながら、僕は手近な枝に手と足とを交互にひっかけ登り渡っていく。学院横の広場から裏の森への道の間には白い柵のほかに大小様々な木々が邪魔をしており簡単には入れないようになっていた。しかし昔から木登りは得意だ。すいすいと手足を進めれば、やがてそれが途切れ、平地が姿を現した。
木の上から飛び降りて、着地するとあらためて見渡す。今も昔もあまり人は通らないのだろうそこは、木こそ生えてはいないが雑草に覆われている。が、よく見れば人の歩いた道らしきものがある。今も誰かが使用しているのかもしれない。どちらにしろ人に会う確率はかなり低そうだ。
そう高をくくって歩きはじめたら。期待は裏切らないってやつだ、思わぬ人に再開した。
彼女と初めて出会ったのもこの森だった。
いつかの光景とダブる。色素の薄い金色の長い髪。あの時は褐色の肌のボディーガードが一緒だった。
「テレーズ……」
名を呼ぶと同時に、彼女の目線がこちらを向く。呼ばれて僕に気付いたのではなく、この人気のない場所に自分以外の人物が現れたことにすばやく反応したのだろう。少し驚いた表情を浮かべたあと、二コリと上品に微笑み返してくれた。
「こんにちは。……あなたはグリンヒルの方ではないようですね?」
「え?わかるんですか?」
「勿論。と言っても大した理由ではありません。お見かけしない顔だということと、私のことを、その、名前で呼ばれたので」
昔、市長代理を名乗っていたテレーズはいまは正式なグリンヒル市長であるとユウリたちから聞いた。市民はみな親しみと尊敬をこめて「テレーズ様」と呼んでいるため、僕のように呼び捨てにするような失礼な人間は他所者に違いないのだ。
「あの、すみません、失礼を……」
「いいえ。気になさらないでください。それよりも、あなたは私をご存じなのですか?」
存じてます。が、どう説明したものか。
グリンヒルは旅人にとって長期滞在には不向きな街だ。長い滞在であれば市長の姿を垣間見ることもあるだろうが、ほんの少し立ち寄った旅人が一目見て市長だとわかるのは明らかにおかしく、不審に思われても仕方がない。
ここは話せる範囲で話すとしよう。
「まあ。ユウリ陛下のご友人でらっしゃいますか。しかもあの時期にもグリンヒルに……」
「はい」
嘘は言ってない、嘘は。
「それは、ようこそいらっしゃいました。久しぶりのグリンヒル、いえ、デュナンなのですね。いかがですか?」
「……活気があると思います。皆新しいことも多くて大変だろうに、どこも笑顔で溢れている」
「この国は生まれ変わりましたからね。なにより、忙しいのはもちろんですが、皆新しいことに明るい未来を感じているのでしょう」
そこまで言って、ふと口を噤む。そして、あら?と首を傾けた。さらりとまっすぐな金髪が顔の動きに合わせて流れる。
「あの、唐突とは思いますが、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「はい?」
「どうして、この森の道をご存じなのですか?迷って辿りつくような場所ではないのですが」
そうだ。忘れていた。
彼女が言ったとおり、迷って辿りつくような場所ではないと言える。僕は隠し扉の存在を知っており、だからこの森の道も知っている。でもそんな人は数えるほどしかいないはずで、そうしたらこの場所にいること自体怪しいことこの上ない。
それにしては彼女は肝が据わりすぎてる。僕が本当によからぬことを考えて近づいていたとしたらどうするんだ。おかしいと気付いたならやんわりと距離を取るとか道を戻るとかしないと自分自身の身が危ないではないか。
「テレーズ、さん。その疑問は当然だと思いますけど、正直がすぎます」
「え、え?」
「僕が危険人物だったらどうするんですか!」
「……ああ。そういえばそうですよね……」
僕の剣幕に彼女はぱちりと瞬きをし、のんびりと考え込む様子を見せる。
これはお嬢様ゆえの世間知らずとかそういうレベルではない気がする。そもそもこんな寂しい場所に一人で来ることこそが間違っているのではないだろうか。ああ、確かにシンのようなボディーガードが必要だったはずだ。いま彼の姿は見えないが。
「まさか、誰にも言わずにここに来られましたか?」
「?はい。よく来る場所ですし」
よく来るとかそういう問題じゃあない。この人、グリンヒル市長ではなかったっけか?しかも現在デュナン君主国の会議開催の街の、だ。
「……テレーズさん。会議中なのでは」
「お昼の休憩中なのです。少し息抜きに」
息抜きに誰にも告げずこんな場所に。ダメだろう。常識的に考えて、不用心だ。
そこまで考えて、突然むかし自分が息抜きと称してほいほいと城外へ出ていたことを思い出す。今ならあの時シュウが青筋を立てて怒った理由が少しはわかる気がする。
思わず遠い目をしていると、ふふっ、と笑い声が聞こえた。
「心配してくださるのですね。あなたは悪い方ではないようです。わかりました、この場所を知ってらっしゃる理由は聞かずにおきます」
唇の前で人差し指を立てて、少女のように笑う。
「……悪人ではないつもりですけど。それとこれとは話が違いませんか」
「私。こう見えて、人を見る目はあると自負しております」
彼女は柔らかいが真剣な目をして僕を見ていた。
「あなたは悪意があって近づいてきたのではないと見た瞬間にわかっていました」
でもあなたとお話をしたいと思ったのにはもう一つ理由があります、と微笑みと共に秘密めいた口調で続ける。
「期待をいたしました」
「期待ですか」
「はい。初対面の方に言ってよろしいのか迷いますが」
「……どうぞ?」
期待の言葉の次に出てくるものは悪い言葉ではないだろう。
そして彼女も迷うと言いながらも、単に了承を求めているのだろうと思える雰囲気であった。僕はそれに応えるべく促す。
「あなたと出会ったことで何かが起こるような気が、ちょっと、しました。以前にも同じような気持ちになったことがあって、……大きな変化がありました」
どうにも掴みにくい話の内容で僕は反応に困る。
「ごめんなさい。雲を掴むような話で困らせてしまいましたね」
にこりと微笑まれ、別の意味でも困ってしまう。
でも何故だろう。テレーズを見ていると、僕も笑いたくなってくる。テレーズはこんなに笑顔の多い女性だったのかと思う。初めて会ったとき表情は固く、悲しみと諦めに彩られていた。
ああ。あの戦争のあとでこんなにも彼女は笑っている。そのことがとても嬉しい。
「テレーズ、…さん」
「どうぞ呼びやすいよう。テレーズでかまいません」
それはグリンヒル市民が知ったら僕は嫉妬に殺されるんじゃなかろうか。さすがにマズイですと断りを入れた。
「テレーズさん。貴女はこんなに笑顔を見せる方だったんだなって驚いています」
そもそもお会いした数なんてたかが知れてるけれど、と付け加えながら。
彼女は9年前降伏を撤回しデュナンに協力することを自ら決め、本拠地へ赴き、共に勝利に向かって戦った。
けれど責任感と緊張、不安といったもので顔を強張らせていた印象が強かった。
いま貴女に会えて良かった。貴女が笑顔で、良かった。
「貴女の笑顔がこんなに美しいなんて知らなかった」
「……まあ」
テレーズの瞳が真ん丸になる。
……今の言い方はラウみたいだったかもしれない。ひょっとしなくても、いま僕はめちゃくちゃくさい科白を吐いたんじゃないか。
いや、もしかして昔は美しくなかったって言ってるように聞こえた?
ええっと、どう言い直したら。
「あ、っと、あの、テレーズさんは昔から綺麗ですよ!」
「……」
「……」
違う。
なに墓穴掘ってるんだ。
「ふっ、ふふっ」
「テレーズさん?」
「も、申し訳ありません。だって、おかしくて……」
口元を押さえて笑いだす。
僕は自分の失言にうんざりしながらも、声を出して笑う彼女だって美しいだなんて考えていた。
だいぶ僕はラウの影響を受けているようだ。
そんなふうに彼に責任を押し付けてみた。