「やあ、おはよう」
「ユウリおはよう、眠れた?」
「……おはよう」
起きたら来るようにと伝えられたテラス。
朝とはいえ、雲ひとつない空の眩しさに目を細め、石造りの廊下からガラス戸を押してテラスへ出た。
にっこりと爽やかな笑顔を向けてくるラウと、まるで旧知の友へ挨拶するような少年の姿の僕に迎えられ、僕自身は一日のスタートにしてはいささか陰気な挨拶を返した。
「今、焼き立てのパンが運ばれてきたところ。早く座って!」
「君もユウリと同じでコーヒー派?砂糖なしミルク入り?紅茶とミルクとオレンジジュース、あとトマトジュースもあるけど」
「え、あ、僕は、ミルクで…」
「君と違うよ」「僕だっていろいろ飲むじゃん」と明るく会話を続けている2人を見ていると、自分が随分前からこの場所にいる錯覚に陥りそうになる。
僕がここに来たのは、昨日のことなのに。
そろりと空いている席へ腰をおろすと、ユウリがにやりと笑う。
「緊張してるんだ?僕なのに?」
僕だって緊張するに決まってる。
まだ僕はこの状況を受け入れられていないのだ。当たり前だろう、この世界に飛んできてから丸一日すら経っていない。たとえ、昨日の夜は夢すら見ないくらいにぐっすり寝たとしても。
何と言い返していいものやら考えあぐね、少し眉をひそめながら身体を固くしていると、ラウが冷たいミルクをガラスピッチャーからグラスへ注いで手渡してくれた。
「君だって緊張くらいするよね」
「……」
冷えたグラスを受け取りながら考える。これは、なんと答えたものか。
なんだ。ええっと、こういう気持ちをなんていうのかな。
「なんかラウに言われると、もやっとするよ」
それだ。
さすが僕。
それと同時に、霜が朝陽に融かされるように、肩の力が抜けた。ほろりと、自然に。
「あ」
ユウリがこちらを見て声をあげる。
ラウも僕を見て、目を細める。
「初めて笑った」
嬉しそうに微笑む2人を見て、僕は心からホッとして、そして妙にくすぐったくて笑い返した。
一度緩んだ頬はなかなか元に戻らず、僕は苦笑いで誤魔化そうと試みる。
僕はたぶん、心細かった。
心臓に毛が生えてるなんてルックに称されたことがあるけれど、やはり心構えなく異世界に来たということに僕は十分うろたえていた。ジョウイとナナミと突然別れたことに動揺もしていた。
それがよりによって僕自身とトランの英雄に緊張を解かれるなんて。
焼き立てのパンとミルク。2人から次々皿へ盛られるソーセージや卵料理、生野菜にフルーツ。そして最後に、ラウに勧められた淡い水色に爽やかな香りの立つ紅茶。
それらシンプルな朝食は、僕のお腹と心をあたたかく満たした。
僕は、ここへ来るべくして来たのかもしれない。そう、明るい陽の下で漠然と感じた。
その直感は、正しかったのだとあとあとになって僕は思う。
けれど、それは本当にもっと、あとのこと。
***
『ジョウイは?』
昨日、僕はそのユウリの問いに答えることはなかった。
答えることが、できなかった。
その沈黙すら答えになるのだろうけれど。
口にしてしまうことはとても恐ろしいことのように思えた。
それに。
僕が「一緒にいる」と言葉にすることで、ユウリはこの世界には「いない」ということを再認識するのだろう。
ジョウイがいない。そんな世界を僕は想像することができなかった。国王となった僕がいることだって、真の紋章を宿していることだって、想像はつかなかった。けれど、それとこれとでは次元が違いすぎる。
ジョウイのいない世界。
そんな世界、知りたくなかった。
けれど、その世界にユウリは存在している。
そして、そこに自分もいる。
理解できない。いや、理解したくない。
ジョウイ。
君のいない世界に、僕がいるよ。
言葉を胸の中で響かせるだけで、その空虚さに心が冷える。
なぜ、君のいない世界に僕がいるのだろう。
なぜ、君のいない世界にユウリがいるのだろう。
僕の世界には確かにジョウイがいるのに、僕は今この世界の現実に打ちのめされそうになっていた。
でも、きっと僕より、ユウリの方が辛い。ジョウイのいる世界の僕がこうして目の前にいるなんて。
残酷だ。
ところがこっちの僕は、僕より数段タフだった。
ユウリは黙ったままの僕をしばらく眺めていたが、ぱちん、とこの場に不似合いな音を立てて手を叩き。
「わかった。ま、詳細は追々でいいや。とりあえず、しばらくここにいたらいいんじゃない?」
そう言い放った。
なんだろうこのあっけらかんとした空気。
僕は唖然としたまま、彼の頭の切り替えの速さが妙に自分らしいと納得した。
元来あまり思い悩まないタイプなのだ、僕は。たくさん考えなければならないことがある場合、目の前のひとつから、昔からそう思っている。
それにしたって、こっちの僕の方が切り替えが早い。
ああ、もう、ここへ来てから負けた気分になってばかりだ。
2重の意味で意気消沈した僕は、情けないことにただ頷くことしかできなかった。
そして僕は、通された部屋で、まず睡眠をとることにした。
よく考えたら、向こうは真夜中だったのだ。緯度の違いで時刻に差がでているのだろう。
もう頭の中は飽和状態だった。僕は寝ることでこれ以上考えることを放棄した。
考えたところで、疲れた頭では大したことは浮かばないだろう。それなら、いま僕がすべきことは睡眠をとることだ。
目が覚めたら、一からゆっくり考えよう。
そう思っていたら、目が覚めるとサイドテーブルにひどく見覚えのある悪筆で呼び出しのメモが置かれていた。手書きのアバウトな城内地図付きで。
なにもかもが僕だなと変に納得し、なんだか朝から脱力してテラスへ向かったのだった。