真っ暗な場所に佇む自分に気がついた。

ここはどこだ。
前後左右がまったく見えない。そのうち上下の感覚すらなくなりそうになって、たたらを踏む。その足元にすら地面を踏む感覚がない。
焦りに襲われる。何か、何かないか。

ふわり。
何かが視覚の端を横切った。
小さな、それはおそらく光だった。
追おうと視線を巡らせ、そして、耳をつんざくような声。




『俺は!!俺が思うまま!!俺が望むまま!!邪悪であったぞ!!!!!!!』




ハッと目が覚める。
目に飛び込んできたのは薄闇の中でもわかるくらいにすでに見慣れた自分の部屋の天井だった。
しん、とした部屋の中で、自分の心臓の鼓動だけがうるさい。
冷たい汗が体中から吹きだしていた。掴んだ胸元の寝間着もぐっしょりと濡れている。

「なんで……」

なんで今あの言葉を思い出すんだ。よりによって、今。

「……?」

疲労した頭で疑問に思う。
何故、よりによって今、だなんて思ったのだろうか。
彼のあの言葉は、思い出せばいつだって自分の胸中に不穏なものを投げかけた。いつだって、だ。

窓の外にチラリと光が見えた。
緩慢な動きでベッドを下りて、窓辺へ裸足のまま近寄った。
この部屋のすぐ下は庭だが、そのずっと先はデュナン湖へと続いている。揺れる小さな光はたぶん湖に舟でも出しているからだろう。

―――あの光とは違う。

ハイランド皇子ルカ=ブライトを取り囲んでいた光はホタルだった。
夢の暗闇の中で見た小さな光から、僕はホタルを連想し、そこから亡国の皇子を思い出したのだろうか。
重たい手で冷たく濡れた前髪を払いながら、ため息をついた。

「疲れたな……」

呟いて疲労を実感する。さらに汗の不快さと、身体の冷えも気になった。
ひとつ項垂れて、それから部屋の扉へ向かって歩き出した。朝までまだ時間がある。風呂で身体を温めて、そしてもう一度眠ろう。




白い湯気に煙る浴場は広いのに落ち着く。深夜帯で誰もいないということもあるが、湯の流れる音や天井から落ちる雫のたてる水音、身体の動きに合わせて現れる緩い波紋が気持ちを穏やかにさせた。
水の中に頭のてっぺんまで沈める。伸びてきた髪が湯に揺らぐのが目を閉じたままに感じられた。
と、カラリと入り口の引き戸の開く音が水中に聞こえて、こんな遅い時間に風呂に入る人物が僕以外にもいるのかと頭を水面に出した。
すると、こんな時間と場所で会うとは思ってなかった人物が目に入ってきた。向こうも僕の姿を認めて目を丸くする。

「驚いた。まさかの先客だ」
「ラウ。どうしてこんな時間に?」
「ユウリの仕事に付き合ってたんだ。君こそどうしてこんな時間に」
「え、ユウリも来る?」
「来ないよ。もう寝てしまうって。……来てほしかった?それとも来なくてよかった?」

聞かれると困る。別に嫌ということはないが。じゃあ聞くなというやつだ、反応した僕が悪い。

「ふ、深く考えて聞いたわけじゃないんだよ」
「……ふぅん。で、どうしてこんな時間に?」
「え。ちょっと眠れなくて気分転換に」

そう、と短く返事が来て、ラウは湯を桶で掬うと身体を流し始めた。
トランの元英雄と風呂。緊張こそしないが、考えてみるとすごいシチュエーションだ。湯けむり越しに思わずまじまじと見てしまう。
というか、目の前の麗人の相貌に改めて驚く。なんだこの人の格好良さ。これがアレか、水も滴るとかいうやつか。
細かな雫の乗った黒い睫毛に縁取られた瞳がちらりとこちらを向く。

「あのさ。そんなに見られるとさすがに恥ずかしいんだけど」
「……ごめんなさい」

誰だって風呂の最中に身体をじっと見られるのは嫌だろう。口元まで湯に入れて、ぶくぶくと泡を吹き出す。
ふいに水量が目の高さまで上がって慌てて顔を上げると、ラウが湯船に入って近づいてきていた。そして濡れた黒髪を耳にかけながら、僕の顔を覗き込んだ。

「顔が疲れてるよ。何かあった?」

相変わらずの鋭い観察眼だ。でも何があったというわけではなく、ただ夢を見ただけだ。

「何も。大丈夫、夢見が悪かっただけだから」
「怖い夢?」

怖いというのでもない気がして、ふるふると首を横に振った。
もう一度大丈夫と言いかけて、くらりと視界が揺れた気がして背を浴槽の縁にもたせかける。すぐに眩暈は治まったが、やはり気分が悪い気がする。まずいかなと目頭を押さえた。

「ユウリ?」

心配そうな声が聞こえ、慌てて笑顔を向けた。

「ごめん、平気。ちょっと湯あたり、かな……」

ユウリ、ともう一度呼ばれた気がしたが、僕の視界は暗転した。




湯あたりなんて言ったけれど、そんな長い時間湯に入ってはいなかったと思う。
調子が悪い気もしたけど、倒れる程ではなかったとも思う。それとも相乗効果かな。

「目が覚めた?気分はどう?」

気付くと霞む視界にラウの顔があった。さらに彼の肩の向こうへ焦点を当てると、あまり見慣れない天井。
声を出そうとしたが喉が渇いてうまく声が出なかった。唾を飲みこんで、もう一度口を開く。

「……僕、倒れた?」

ふ、と安堵の息が聞こえた。

「驚かせないでよ」
「ご、ごめん、ね。もう大丈夫」

起き上がって座る。大丈夫、眩暈はない。でも正直まっすぐ立てる自信はあまりない。まだどこか不安定な感じが残っていた。

「ここって医務室……」
「君の部屋までは少し遠いからね。湯あたりってことで寝かせてもらった。と言っても、20分程度だよ。その間にも何度か目を開けてたけど、君覚えてないだろ」

20分は長いのか短いのか、いまいちわからない。
それにしてもラウに医務室に運んでもらうのは2度目になる。短い期間によくもまあこれだけお世話になるものだ。ごめんなさい。

「……ん?」

風呂場から医務室にラウが運んでくれたんだろう。それよりも問題は、僕が風呂場で素っ裸で倒れたってことだ。今僕が持参していた服を来ているってことは。

「も、もしかして。ラウが僕を風呂から引っ張り上げて、服まで着せてくれたの……?」
「そりゃあ、まあ。僕しかいないでしょう」

あああああああ。

風呂場で倒れるなんて。当然裸で。しかも介抱されて服まで着せてもらって!本気で恥ずかしい!!

「落ち込むよりも喜ぶべきじゃないかな、一人じゃなくて良かったって。風呂場で意識なくすなんて間違ったら溺死だよ」
「そうだけど!そうだけど……!」

羞恥に頭を抱えてしまった僕へラウは優しい言葉をかけてくれるけれど、ちっとも慰められやしない。「ま、恥ずかしいよね」と付け加えたラウに、心の中で、そうに決まってるじゃないかと毒づいた。

「ほら、水分摂って」

水の入ったコップを向けられて、情けない思いでいっぱいになりながら「ありがとう」と受け取り、一気に飲み干した。それから、助けてもらってことに対してお礼を伝えた。

「助けてくれて、ありがとう。ごめんなさい」
「お礼だけでいいよ」

小さく笑われる。この人のスマートさというか気遣いはありがたくもあり、気恥ずかしくもある。

「もうあと数時間したら朝になるし、ベッドも空いてるからここで寝ていっても良いそうだよ。お水、ここにあるから好きなだけどうぞ」
「えっ。あ、うん。いや、えっと。ううん、何でも。はい」

椅子からすでに立ち上がったラウの目がなんだと尋ねている。しまった、素直にうんと頷いて送り出してしまえば良かった。

「や、やっぱり落ち着かないし部屋に戻ろうと思って。もう平気。だからユウリには言わないで。心配かけたくない」
「そう。わかった。ひとりで部屋に帰れそう?」
「うん、大丈夫。ゆっくり帰るよ、ありがとう」

じゃあお先に、とラウはすんなり退がって部屋を出ていってくれた。もしかしたら部屋まで送ると言いだすかもしれないと思ったが、医務室からだと僕らの部屋は互いに逆方向に位置するのが幸いしたようだ。
僕はベッドから下ろした足をぶらぶらさせたり手を振ったりして動きを加えてみる。うん、これならなんとかなる。
もう一杯水を飲むとゆっくりとベッドから下りて、医務室の出入り口に向かった。ふらついたりはしないが、やっぱり気分は良くない。湯あたりってこういうものかと反省した。

廊下に出ると外からの風が火照った身体に心地良かった。こんなことをしたら今度は逆に身体を冷やしてしまうかもと思いつつも、さらに庭へと足を踏み出した。
太い幹の木が目に入り、そこにふらふらと歩いていって座り込んだ。木にもたれかかり目を瞑ると、木特有の重みのある冷たさと微かな風が気持ちいい。四肢を放り出し力を抜いた。
しかしこれはまるでルカ=ブライトの最期の再現をしているみたいだなとぼんやり考える。

ルカ=ブライトに対する気持ちは時間とともに少しずつ形を変えているように思う。
昔、少年兵だった僕らが裏切りを受けた時は、本当に憎くて。そして何より、恐ろしい存在だった。死よりも恐ろしかったのだと思う。理解のできない、僕にとって在ってはならないモノだった。
新同盟軍となり反旗を翻した後、ルカ=ブライトは強敵へと変わっていた。わけのわからない恐怖でしかなかった存在から、実態のある人間となったのだ。
そして彼の最期。

目を開けてみる。そこには記憶にあるホタルの光はない。ただ夜の闇が広がるのみ。肌を滑る風も冷たくて、あの時に感じた湿度と熱を含んだものでもない。

僕はあの時最後までルカ=ブライトが何を考えているのかわからなかった。
どうしてあんな風に叫んだのか。何が言いたかったのか。彼は果たして本当に望むままに在れたのか。

ああ。でも、今なら少しだけわかる気がするのだ。
彼は本当に望むままに生きたのだろう。ひょっとすると彼にとって望まない地位、望まない環境だったとしても、その中で自分の生き様を見つけ、実行したのだ。
僕にルカ=ブライトのしたことを理解できる日はきっと来ない。彼のしたことが許されることとも思えない。
でも、彼の行動は一貫していた。ハイランド皇国という場所にある全ての物や人を壊し尽くそうとしていた。他の追随を許さない圧倒的なその力、その意志で。

僕は、自分自身の軸すらブレそうになっているというのに。
こんなことでは優先すべきことの為に自分に何ができるか考えるに至らない。
情けなさに頭が自然と垂れ下がった。




「―――こらっ」

どう考えても僕に向けられた声にびっくりして目を開ける。
目線の先には部屋に帰ったはずのラウが立っていた。
さくさくと草を踏みしめながら近づいてくるのを唖然として眺めていたら、あっという間にやって来て目の前に屈みこまれた。

「君のことだから世話を焼かれるのは嫌だろうと思って、帰ったフリをして様子を見てようと思ったんだ。調子悪そうだしさすがに部屋に直行するかと思ったら、こんなところで道草食い始めるし。あのね、君がこうやってこっそり無茶をするから皆余計に心配するんだよ。わかってる?……ユウリ?」
「あっ、はい」

突然のラウの出現と繰り出される言葉にぽかんとしていたため心配されたようだ。慌てて返事をすると、ため息を返された。

「……決めた。もう強制送還する」
「えっ、は?うわ、なに!?」
「口答え禁止。君の同意は要りません。これ以上僕に迷惑をかけるなんて言わないよね」

口調は丁寧だが怒りが滲みだしている。これは本気だ。僕は声を発することができず、ただ頷き返す。
そして僕はラウの手により自室へと連れ戻されたのだった。お姫様だっこという本日2回目の辱めを受けながら。自業自得だということは百も承知だが、受け入れたくないことってあるじゃないか。僕の方がちょっとだけとはいえ背が高いのにとか、そんな些細なことだって僕にとっては大事なことだ。
ふと風呂場から医務室へはどうやって運ばれたのか疑問に思ったが、この状況を思えば聞かなくてもわかる気がするし、もう色々と怖くて口を開くことができなかった。

でも冷えた身体にラウ=マクドールの体温はしみじみと温かくて、妙に安心して。僕はそのあと朝までぐっすりと眠ることができたのだった。
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