窓を閉めると同時に部屋を僅かに循環していた空気の流れが止み、それが少し風の通ったはずのユウリの心を再び元の状態へ引き戻しそうになる。
そのことに自ら気付いた少年は頭を軽く振り、窓から離れた。部屋の中心へ振り返ると宰相から声がかかる。
「そういえばユウリ。いま思い出したのだが」
「うん?」
「昨夜、部屋の窓を開けっぱなしにして寝てたろう。その前もか?無用心だから止せ」
「えっ、なんでバレてるの!?ちょっとやだなー、見張ってる?」
「俺がそんなに暇に見えるか。匿名で数名から嘆願書が届いてた。お前が窓を開けっぱなしにしているからやめさせてくれってな。しかも、遠目に見てもわかるくらいに盛大にとか」
「数名?ていうか嘆願書だなんて大げさな」
「・・・まだ自覚がないとか言わないだろうな、国王陛下?『どうぞここからお入りください』と言わんばかりに開けた窓があって、警護もなにもないだろうが」
殊更に『国王陛下』を丁寧に発音してみせる。
「ううっ」
「わかったか」
「わーかりました。・・・でも今日は閉めてきたよ。覚えてる。鍵かけたもん」
「いい歳して、語尾に『もん』とか付けるな」
少年はイーと歯をむき出して、まだ何か言いたそうな顔をした宰相を残し、すばやく扉の向こうに姿を消した。
見られていたなんて。
けれどそれについてはただの不精だと思われたようで、訂正を唱えたい気もしたが、そのほうが都合は良いので肯定も否定もしなかった。
不審者を招き入れるつもりはさらさらないのだが、確かに入ってきても良いように、とは思ったことは否めない。その可能性はないとも思ったこともまた事実だが。
ほんの、きまぐれだ。
同盟軍時代、軍主の部屋にはいろんな人間が出入りした。
刺客なんて望まぬ客も忍び込んできたが、ほとんどは気の許せる仲間たちだった。翼をもったウイングホードが涙ながらにかくまってくれと飛び込んできたり、気配を感じなかったのに突然部屋の隅に忍びの者が現れたり、私物を漁ろうとして潜りこんできたらしい(何もないのに)ユニークな仲間もいた。また、夜になって白いコウモリの姿でいつのまにか天井にいた女性もいれば、鍵なんて関係ない(そして窓も関係ない)とばかりに魔法を使って部屋に姿を現す者もいた。
見張りの兵士が部屋の前に立ってくれるようになってからも、部屋に出入りする人数にさほど変化がなかったのはいかがなものかと今思い出しても首を傾げたくなる。さりとて何か不都合があったかと言われれば、なかったとしか答えようがなかった。
それはさておき。
「彼」もまた、いつのまにか部屋に入り気ままにくつろいでいた人の一人だった。
誰もいないはずだと思いながら部屋に戻ることは少なく、だから部屋に何か気配を感じれば、誰だろうと考えるのも実は楽しかった。そして、彼は気配を感じさせない数少ない訪問客の一人だった。
慣れてしまえば人の気配のない部屋に彼がいたとしても驚くことはなくなり、存在をお互いに確認し合うと言う意味で目を合わせ、簡単な言葉を交し合うだけして自分のやるべきことに取り組んでいた。
彼はどうしてこの部屋を訪れていたのだろうか。
ふとそんな疑問が浮かぶ。
あの頃は、彼といることに疑問を感じなかった。いないことにも疑問を感じなかった。彼といる時間はその時と比べ物にならないほどに少なくなった今も、それは同じかもしれない。
けれど、彼がいることに確かに安心を得ていたのだろうと思う。たぶん自分は自覚していたよりもずっと彼に甘えていたのだ。
あの頃と今の何が違うのかと言えば、お互いの身をおく環境であろう。彼は旅に出、自分はここに留まり王様業などに携わっている。城の中と外、その条件は昔も今も変わりはないのに、たしかに現在の方がはるかに簡単に会える環境ではなくなったと言える。それでも元々が四六時中一緒にいたわけではないのだから、これもまたあまり関係ないようにも思うのだ。
では。さきほどの鳥を見て連想したことはなんだったのか。
「・・・・・・やだな」
頭の隅を掠めた自答に眉を顰める。
「ちょっと図々しいよ」
自分のところに来てくれたら、と?
それとも。ただ単に自分が彼に会いたいだけか。
「その方がよっぽどマシだ。・・・それはそれで心底悔しいけど」
自室の扉前にたどり着き、ぼそりと呟いた言葉に見張り兵が何かと尋ねた。
なんでもないと笑顔と共に首を横に振り、開けられた扉から部屋に足を踏み入れた。
おかしいと思ったのだ。
扉が兵士の手によって開けられたとき、僅かに空気が外へ流れてくるのを感じたから。
シュウに言ったように、自分は窓を閉めて部屋を出たはずだ。
そして次の思考へ移る前に。音が耳に届いた。
「やぁ」
どれくらい前に聞いただろうか、その声。けれど昨日も会ったかのような気軽な声かけ。
「や」
自分も毎日交わす挨拶のように返した。
目を合わせ、双方にこりと微笑む。あまりに馴染みすぎて、懐かしいと思うことすらない。
彼は開いていた窓を閉めた。風が止む。そこでやはり先ほどの空気の流れはこれだったのだと思い至る。
「閉まってたよね、窓」
「さぁ。僕がここから入ってきたんだから開いてたんじゃない?」
「開けたんだね・・・。僕はまたシュウに怒られるのかな。さっき窓を開けっぱなしにするなって注意されたばかりなのに」
どうということのないだろう言葉に。何故か、おや、と訪問客の目が問うた。少年の方はそんな反応が返ってくる理由が思い当たらず、何だろうかと純粋に訝しむ。
「これまでは窓を開けっぱなしにしていたの?僕のために?」
「・・・・・・違うよ」
もう少し捻りの利いた返事ができなかったものか。少年は自分のうかつさを呪った。客人とて本気で聞いたのではなく、軽口のつもりだったに違いないのに。違う、本当に違うのに。
内心おそるおそる、目をやると。想像したとおりに、客人はニコーッと。それはそれは嬉しそうに笑ったのだった。
少年は小さく溜息をつく。
ああ、もう。そう、心の中で毒づく。
それでも顔には笑みが浮かんでしまって。多少苦い笑いなのは許してもらおう。想像は、していた。彼の笑顔を見てしまったら、たぶん自分はどんなこともどうでも良くなるのだろうと。昔からそうだった。彼の笑顔には弱い。
諦めて顔を上げ、彼を見る。
客人が気付き、少年との距離はそのままでこちらへ真正面を向きなおり、佇まいを正す。
「ユウリ」
「うん」
「ただいま」
「おかえり、ラウ」
ユウリは笑いかけて両腕を軽く広げた。
ラウは口元を綻ばせて、ゆっくり歩を進める。そして、自分も腕をふわと広げると、ユウリの迎える腕の中に自身の体を収め、少年の肩を包むように両腕を回した。
ユウリは彼の体温にほっとする自分に気付く。
ただいまと言うべきはどちらだったか。そして、おかえりと言うべきは。
「あー。人肌」
「なに、その感想」
ラウの感動のカケラもない言葉にユウリはつい吹き出してしまう。
でも、と考えを改める。こんなに近くに人肌を感じたのは久しぶりだった。
「うん、でも、人肌だね。あったかい」
そう答えると、肩を包み込んでいたラウの手が返事代わりのようにぽんぽんと軽く跳ねた。その動きに合わせて頬に風が優しく滑る。
「ラウの腕、鳥の羽みたい」
「それは言い得て妙だね。さしずめ僕は旅から帰ってきた鳥ってとこかな」
ピクリ、ユウリが反応して顔を彼の首元から上げた。
至近距離でじっと目を合わせる。ラウはそれに不思議がりもせず、同じように見つめ返してきた。
「・・・・・・おかえり」
「うん、ただいま。・・・二度目だよ?」
クスリと笑って今度は首を傾げた。
「言いたくなっただけ」
ユウリは言って、もう一度ラウの首元に顔を寄せる。
彼がただいまと言い、自分がおかえりと言う。
自分がおかえりと言い、彼がただいまと言う。
どちらも同じだけれど、どこか違う。けれど、どちらも心地良いものだと感じた。
「いろんなところにも寄ってきた?」
「まぁね」
「そう」
どこへとは聞かない。自分のところにだけ来たのではないことに安心する。
そして自分のところにだけ来て欲しいわけではないのだと、今たどり着いた結論にも安心した。
ラウの戻る場所がどこかしらにあれば、それで良い。
気付けば窓の外は藍色に、部屋の中はより一層暗くなりつつあった。