「今日の仕事はオワリ、と。うん、順調」
 とん、と手元の書類を立てて揃えると机の上に置き、紙の束の上からペーパーウェイト代わりに分厚い本をのせる。

 一人でいるには無駄に広く思える執務室にデュナン国の少年王はいた。
 普段仕事を共にすることの多い宰相は少し前に呼び出しをうけて部屋を出ていた。
(何かあったかな。面倒なことじゃなければいいけど)
 けれど呼び出しにきた文官の様子を思い出し、そうではなさそうだと思いなおした。
 さて、と声に出し、部屋の中を何か乱れっぱなしにはしていないだろうかと見渡して、仕事途中で退出した宰相の机の上以外は整っていると判断する。
 宰相を待っていようか、いつ戻ってくるかわからないのだから先に自室へ上がろうかと考え、ふと視線が横切るだけのはずだった窓の外へ止まった。
 夕日に染まった空。
 この位置からは視認できないが、その下には豊かな水を湛えたデュナン湖が広がっており、空と同じ夕焼けに色づいているのだろうと思う。

 夕焼けに感傷的になることは少なかった。
 むしろ、綺麗だとかそういった所謂普通の感情の方が先に湧く。
 薄情なのだろうか、と宰相を前にして言ったことがある。
 尋ねたわけではなかったのだが、彼は迷わず、バカな、と言った。昔とまったく同じ感情を抱く人間などいない、とも。
 それは強くなるってことかな、と今度は尋ねれば、時は経つということだ、と質問に対する答えではない返事がかえってきた。

 窓から見える橙の空に、幾つかの黒点を見つけた。
 なんだろうと考える前に、それが鳥であることに気付く。
 鳥が巣に戻っていくのだ。
 そこで、ユウリの目がさらに遠くを見た。その瞳に空以外が映ることはない、けれどその空の向こうを映そうと。
「・・・・・・どうしてるかな」
 ポツリと発した声は、橙と共に静寂の満ちはじめた部屋に硬い響きを伴い散った。しかし思いは霧散することなく、頭の中を空気と同じように染めていく。

 どうしてるかな、彼は。
 いま、どこにいるだろう。
 どれほど遠くまで行ったのだろう。
「・・・・・・ラウ」





「失礼します。・・・陛下?」
 ノックの音の後に入室の言葉がかけられ、部屋に入ってきた人物は少年の立ち姿を見つけて足を止めた。
「ああ。シュウ。おかえり」
 振り返った少年王はいつもどおりに微笑み、彼の帰りを素直に迎える。
 宰相も一度止めた足を進め、自分の散らかったままの机へと寄った。
「揉め事は解決したの?」
「そのことか。心配ない。現にそんなに時間もかからなかったろう」
 そう言われて、少年は部屋がまだ闇に覆われていないことに気がつく。そっと窓の外へ目線を移し、色は濃くなったもののまだ赤いのも確認する。大体にして、お互いの顔が判別できるくらいにはまだ明るい。
 宰相は彼のそんな様子をしばらく黙って見ていたが、何故か踵を返すと再び部屋の扉へと近づいていった。少年がその動きを不思議そうに目で追う。
「シュウ?」
「部屋が暗くなってきたから灯りを持ってきてもらうよう頼むだけだ。そろそろ必要な時刻だろう」
「あ、そっか。ありがと」
「いや。俺の仕事もまだ残っているしな」
 扉を開き、外の兵士と一言二言交わすのがわかる。そして扉を閉めて、今度こそ椅子に腰を下ろした。
「それでお前はどうしてこの部屋に残っていた?終わったなら自室へ戻って休めばいいものを。特に急ぎ俺のチェックが必要なものもなかったろうに」
「そんなことくらい言われなくてもわかってるよ。僕いったい何歳だと・・・。まあいいや。大した理由なんてないよ、ただボーッとしてただけ」
「何かあったわけではないのだな」
「?なんにも。何かってなに?」
「何もないなら、いい」
 目線を自らの手元へ落とすと、ぱらぱらと手元の紙を捲くり、しなやかな動きで右手にペンを持つ。まもなく、紙の上を滑るペンの音が部屋に響いてきた。
 と、紙の上のその音より大きく無粋な扉のノック音がそれを遮った。
「いいよ、シュウは仕事続けてて。僕が出る」
 ペンを置こうとするシュウを片手で制し、少年が扉へ近づいていった。
「や、ご苦労さま。うん、僕が・・・うん。ありがとう」
 やはり一言二言のやりとりのあとにぱたりと扉が閉まり、振り返った少年の手元には灯りがあった。
 結局手を止めて国王の行動の一部始終を見ていたシュウに、少年の目が合い、彼は小さく吹きだした。火がゆらめき、顔を照らす赤が波打つ。
「なんでこっち見てるの?仕事しててーって言ったのに。意味半減」
 ほらほら続きやって、と手を振って再開を促す。しかし机に置いてあるランプへと近づいてくる彼に、シュウは手を止めたまま待っていた。
「何を考えてボーっとしてた?」
「え?・・・ああ。さっきの話。んー、特にハッキリとした考え事じゃなかったんだけどね」
 ランプに火が灯り、机の上に明暗がくっきりと出来る。
 問いに対する返答は中途で止まったが、誤魔化したいという風でもない。シュウは更に尋ねることはせず照らされた手元へ意識を戻そうとしたところ、ユウリの声に引き戻された。
「ね、ちょっと窓開けていいかな。風はないみたいだし」
「ああ、構わない」
 ギ、と僅かに木枠の軋む音を鳴らせながら窓が開く。風というほどに激しい流れではないが、足元から外の空気が入ってきたのを感じることはできた。
 小さく。どこか遠くで鳴く鳥の声が聞こえた。
「心配、だなぁって」
「?」
 窓枠に背を預けるようにしてこちらを向く少年へ視線で問う。
「さっきね。ちょっと心配しちゃった」
「何を」
「・・・・・・鳥。ちゃんと帰る場所へ飛んでいけたかなって。空の高い位置で飛んでる鳥を見たんだ。大急ぎって感じで」
 背後の空をちらと見て、後から説明を付け加えていく。
「・・・・・・鳥には帰巣本能がきちんと備わっている。戻れるだろうし、何かあったとしてもそう簡単に死にはしない」
「すごいね、広い空を飛んで小さい地上を見下ろして。フェザーの背に乗せてもらった時はびっくりしたっけ」
 そう言って小さく笑う。けれど、それはどこか気が漫ろで。
「心配する必要なんてないだろうし。もしも降りる場所を見失ったとしてもこっちに何ができるっていうわけじゃないんだけど・・・。だって、向こうはこっちにSOSなんて出さないもの」
「・・・・・・」
「降りたい場所じゃなくたって休めたらいいんだ。でも飛ぶしか選択がなかったらって想像すると悲しい。手を差し出すことができないなんて。頼ってくれたらいっそ気が楽だけど、そんなことはありえないだろうし」
 シュウは少年がもはや文字通り鳥のことを話しているのではないだろうと気が付いていた。もっとも最初からユウリが鳥の話がしたいのではないだろうと推測はしていたが。シュウは心の中でだけで小さく息を吐き、口を開く。
「賢ければ飛べなくなる前に休む。お前に直接的にできることがないのなら、それくらい信じてやれば良いのではないか」
「・・・うん、そうだね」
 少年が下向き加減のままクスリと笑った。そして上げた顔は、だが、微笑といえる程度にしか笑んではおらず、後ろから射す眩しい赤が丸みの取りきれない少年の輪郭を悲しく彩った。
「・・・泣きながら、飛んでないといいな。いやだな、そんなのは」
 鳥が鳴くのとは違う、泣く。誰が、とは思ったがなんとなく察することはできた。
「お前がそんなに心配するほどに弱くはあるまい。むざむざ危険を冒したり無謀を好んだりもすまい。見失う前に周りを見る賢さも併せ持っているのだろう、その鳥は?」
 ユウリはシュウの言葉の真意を掴みそこねて困ったような表情を浮かべた。
 いや、シュウがおそらくは自分が言いたいことに気付いたと知って、困っている。
 どう答えたものかと口を開きかねていると、宰相は席を立ち、窓の少年の傍へと歩み寄ってきた。
「お前が泣きそうな顔をしてどうする」
 手の甲で頬を軽く叩いた。ひやりとした温度が薄い肌から伝わり、シュウは気付かれない程度に眉を顰める。
「冷えてきたようだな。そろそろ窓を閉めて部屋へ戻れ」
 びっくりした目をしている少年へ背を向けて、宰相は席へ戻り今度こそペンを手に取った。
「シュウが優しい」
 まだ呆けているのか、ユウリの口から出てきたのは子どもの感想文のような短い言葉だった。しかしシュウは目線を文書からあげることなく返事する。
「国王が風邪なんてひいた日には俺の仕事が倍増する」
「・・・わあ、優しい」
 至極真面目に言葉を紡ぐ宰相に、胡乱な目と共に返事しながら、それでも素直に窓を閉めた。