道の先。とは言っても数メートル先の地面に、ラウはなにか異物を見つけた。それは微かに黄色く、小粒の石が多い灰色の地面の上にあってハッキリした存在ではなかったが、たしかに何かがあるとわかった。
「・・・蝶、か?」
 あまり昆虫の種類には詳しくなく、そういえばこういうのはここより遠くの国の王様がよく知っていたなぁなどと思い出す。自分にわかるのは、小さくて黄色い蝶、ということだけだった。
 しかしその蝶は人が近づいてくるというのに全く動こうとはしなかった。もっともその理由は昆虫に詳しくないラウにもわかっていた。いまはふつう蝶が羽化するには適さない時期なのだ。

 蝶との距離を数十センチにまで詰めて、しゃがみこんで見た。
「お前、どうしてこんな時期に羽化したのかな」
 もっと暖かい時期に蛹から蝶へ変わり翅を広げる予定だったろうに。
 翅の縁は所々欠けており、鱗粉は散って元はきれいだったろう黄色も薄くなっている蝶をながめながら、そう声をかけた。なんの間違いか羽化してしまった挙句、このまだ冷たい空気や餌のなさにすっかり弱ってしまったのだろう。

 蝶がふいに縮こめていた足を、次いで翅をぴくりと動かした。
「あれっ。・・・生きてる」
 ラウは小さな虫の生命力に純粋に驚きの目を向けた。
 が、今のこの環境を思い返してスグに首を振る。
「可哀相に」
 まだ生きてはいるけれど、生き続けることは限りなく難しかった。まだ寒い季節はしばらく続き、栄養分をわけてもらえる花もないに等しい。
 こうして生きていることが果たして幸運なのか、不運なのか。





 ラウは「生と死を司る紋章」を宿しているが、それに呪われ振り回され続けているかと言えば、その実感はあまりなかったりする。
 かと言って、完璧に制御できているかと問われればそれもまた実感も確信も持てなかった。
 少なくとも自分のなかで大事な人に分類されていると認識のある、かの少年の命は未だ失われていないが。・・・おそらくは、と付け足しておく。
 戦闘時における力のコントロールはできているという自信がある。これは早い段階のうちに手ごたえを得ることができた。だが、呪いの本質とも言うべき「紋章の所有者に近い魂を奪う」ということについては、よくわからないというのが本音だ。
 紋章を宿したばかりの頃、立て続けに大切な人を失ったときはただただ紋章の呪いの前で無力な自分に愕然としているのみだった。
 紋章の力を己のために引き出し使うことができるようになった今、それを防げるのか、もしくは既に防いでいるのか、確かめる術はなかった。もちろん確かめたいとも思わない。そもそもどうすれば鍛えられるか防げるかといった確かな方法など知らないのだから、出来る限りで自分を高め強くなるしかやれることはなかった。
 それでも。
 ラウは漠然とだが思っている。
 おそらく、真の紋章を完全に自分の手足のように制御することなどできはしないのだと。
 どれほどにどれほどに強くなったとしても。





 さて。それでもいま自分に「生と死を司る紋章」を多少なりとも自在に動かすくらいの力があるとする。
 そうであれば、この目の前に横たわった蝶をどうすべきだろう。
 考えて、ラウはちょっと眉を顰める。
 違う。どうしたいと考えるかだ。なぜなら自分が決めたことに対して叶えることができるという仮定での話なのだから。
 暖かい季節ではないこの時に羽化したこと自体、この蝶にとって過酷な運命が用意されたと言えるだろう。
 しかしいま尚、蝶はこうして生きている。
 ここから先の選択は運命ではない。生きようとする姿そのものが運命であるとか、死に立ち向かっている姿が運命に抗っているとか、そんなことは真の紋章の力の前にあっては関係がないと言える。あえて言うなら、その先にあるものが運命と呼べるものだろう。
 すなわち、この弱った蝶がおそらくは数時間以内に訪れるだろう死を迎えるか、それとも生き永らえてこの場を離れていくか、である。
 破損した翅をもった蝶にとって後者の選択は自身の力においては不可能なことだ。
 ラウに後者の選択の道をも与える力があるとすれば。
 どちらを与えようとするだろうか。
 そして後者を与えたとして、その後の命の保障はどこにもないのだ。たとえばこの木々の奥にあるいは越冬できるような場所があるかどうかもわからず、あったとしてそこに辿り着けるかもまたわからない。
 待っているのは、ひょっとすると今この場での死よりも過酷な死かもしれない。





 バンダナの先がわずかに揺れて、ラウは風が出てきたことに気付いた。
「・・・これは少し急いで進んだほうが良さそうだな」
 これくらいの寒さなら野宿でも構わないと考えていたが、風が出てきたとなると条件が変わってくる。これ以上風が強くなれば夜は厳しいものとなる。
 ふたたび蝶に視線を落とす。
 きっと明日の朝には命が尽きているに違いない。
 けれどこのまま灰色の道の真ん中に捨て置いていくのは気がひけて。
 両手ですくうようにして蝶を道端へ移動させた。その間も蝶は反射的にか足を小さく動かした程度で大人しく運ばれるがままになっていた。
 移動させた場所もけっして居心地の良さそうな場所ではなく、石の替わりに枯れ葉や短い草が生えているようなものだったが、少なくとも自分のような旅人の足で踏み潰されることはないだろう。
 結局のところ、これくらいしか出来ることはないのだ、とラウは軽く脱力感を覚えながらそっと両手を開いて蝶を大きめの石のそばに置いた。少しでも風を防ぐことができるように。
 そして、
「お前が望むような道が開かれていると、よいな・・・」
 小さく呟き、立ち上がるとラウはその場を去っていった。





 葉の落ちたあとの小枝同士が触れる乾いた音が一帯に響き、地面に落ちた枯れ葉が反り返った縁を風のうごきに合わせて上下しだす。
 空は相変わらず鈍い色を浮かべていたが、雲の隙間から柔らかい暖色の光を覗かせて夕刻が迫りつつあることを示していた。
 灰色の地面に、黄色いものが風に吹かれて揺れた。
 否。小さな二枚の黄色い花弁のようなそれは風に吹かれたのではなく、意思をもって力強く震えた。
 おもむろに大きく開いたり閉じたりを数回繰り返したのち。
 灰色の空に黄色の翅が羽ばたいて、やがて木々の間に姿を消した。

 その翅に欠けはなく、色は明るい黄をのせていた。
e n d

坊ちゃんは気付いていないけれど、救いのあるような話を書いてみたくなりました。
坊の意思が影響したものか紋章の勝手な力なのかはわからない、という結末です。