ユウリが顔を憂鬱そうに顰めて、自らの服の裾を握り締める。
「うう。体中がしっとりしちゃって気持ち悪い・・・」
隣を歩いていたラウが応えるように辺りを見渡した。
あたり一面が濃い霧に覆われていた。隣にいる少年を見ることはさすがに容易いが、この平原で10数メートル先に何かがいてもお互いに気付かないかもしれない。もっとも猛獣であればこの霧の中へ出歩くようなことはしないだろう。そういう意味ではあまり心配はいらないに違いない。
「すごい霧だね。しばらく晴れないんじゃないかな」
「ええー・・・早く城に戻りたいなぁ」
「いや、ユウリ。帰れないのは誰のせいだっけ?」
「う。僕のせいです、ゴメンナサイ」
ユウリの頭の位置が、項垂れた状態から更に下がる。
ラウは笑ってその頭をぽんぽんと叩いた。
「ま、部屋に置き忘れることもあるよ。僕も何度かやったことあるって」
ふたりしてビッキーに転送してもらってクスクスの街まで来たが、いざ帰ろうとした時に肩掛けの中に目的の鏡がないことに気が付いた。
幸いクスクスの街から本拠地としている城までそれほど遠くはない。のんびり歩いて帰ったところで数時間の距離だ、と歩き始めたまでは良かった。
今朝は暖かく天気も悪くはなかった。クスクスの街で遅めの昼食をとっているときに雨が降ったものの、出発する頃にはあがっていて「運がいい」などと話してもいた。しかしそれも『瞬きの鏡』で帰ることを前提としての話で。
鏡がないことを知った時には雨が降っていたこともすっかり忘れてしまい、つまりは霧が発生するだろうことにも思い至らなかった。それに気が付いていれば、あるいはクスクスの街で一泊して帰るという選択肢もあったかもしれない。
そんなことを考えたところで、いま平原を歩いている事実は変えようもなく。
重そうな頭を僅かに持ち上げて、情けない表情をしたままのユウリがラウを見上げた。
「ラウもやったことあったんだ・・・?でもなんかガッカリしちゃって。帰ろうと思ったらナイなんて」
「あはは、わかる、わかる。でもホラ、言ってても仕方ないし。歩こう」
立ち止まってしまっていた少年の腕を取り、歩みを進めはじめる。
若干肌寒さが気になる。雨が降ったせいで温度が下がっているのだ。掴んだ腕も冷えているような気がした。
出てくるときは暖かい温度だったせいで寒さ対策はなにもしていなかった。また、近くの街での私用ということで、本当に気軽に城を出たのだった。
「寒くない?」
ユウリの服から出ている肩が気になり、声をかける。
「僕は平気。ラウは?」
「うん、ユウリが平気ならいいんだ。僕も大丈夫」
ラウは自分の服の袖を指さす。袖があるから、と言いたいらしい。ユウリも笑って、コレがあるから、と自分のスカーフの結び目を引っ張った。
「それにしてもこう視界が悪いと、方向感覚が狂いそうだね」
「確かに」
まぁこの道は間違っていないはずだけど、とラウが呟けば、ユウリも肯定の頷きを返す。けれど、ユウリはどうにも浮かない顔をしていた。
「・・・どうしたの?」
なにをそんな浮かない表情をしているのかと気になったラウが窺うと、ユウリはラウを見やって苦い笑いを浮かべた。
「うーん。やっぱり気持ち悪いなあって思って。あ、服とか髪がどうっていうよりも・・・気分的に。先が見えないのが嫌だなって」
少年の言う「気持ち悪さ」のせいか寒さのせいか、むき出しになった腕を擦りながらそう言った。
ラウは軽く頷き返し、目線をぐるり周囲に巡らせた。
「うん。あんまり気持ちのいいものではないね」
「こんなところでならないってわかってるけど、迷子になりそうな気分」
「ああ、うん。それもわかるような気がする。周りが見えないっていうのは必要以上に不安を呼び起こすしね」
「そうそう。よく知ってる川の浅瀬でうっかり足を滑らせて、慌てすぎて溺れそうになる時みたいな・・・。あー・・・水に溺れるような感覚に似てるのかな」
ぽつりと言ったユウリへ、ラウは顔を向ける。その表情はあくまで穏やかだが何かを探ろうとしているような。
「周囲が見えなくなる感覚が?」
「そう。知っていることも思い出せない状態になって、無駄に足掻いて」
「本当は、立てる場所なのに」
ふとユウリが足を止める。そしてラウの顔を見ると、眉を顰めるのだった。
「・・・何の話をしてたっけ?」
「・・・なんだっけね。僕も忘れちゃったよ」
「なにそれ」
ユウリは、本当に忘れたのか肩を竦めるラウに笑いかけて、けれどそれ以上問うことはせず再び歩きだす。
「はー、ひとりじゃなくて良かったぁ」
ひとり言というには大きなユウリの言葉に、ラウは小さく笑った。
「ユウリ」
ラウが軽く呼びかけ、そして少年はいつものように目を向ける。
「今度。溺れそうな場所があったら、一緒にとびこんでみようか」
ごく軽く。けれど唐突で物騒なラウの言葉に、ユウリは目を見開く。しかし、すぐに笑みを浮かべて、
「それもいいかも」
と答え。「でも、」と続けた。
「たぶん、ふたりだったら溺れないね」
にっこりと。白く覆われた曖昧な空気の中で、晴れやかな笑顔をひとつ。
それを受けたラウの表情に大きな抑揚はなかったが、それでも彼の漂わせる空気は柔らかくなったようだった。微かな笑みをのせたカタチの良い唇を開く。
「僕もそう思うよ。・・・・・あ」
「あ、見えた!」
霧の向こう、石造りの城の姿がちらりと見えたのを同時に確認して声を上げる。
ふたりは顔を合わせると笑いあった。
そうして。
「ところで明日、騎士団が練習試合をやるんだって?」
「もう聞いてたんだ、今からすっごく楽しみ!ラウも見ていくでしょ?」
「勿論」
意図的か、そうではないのか。
つい先ほど交わしていたものとはまったく別の話題に転じ。そのまま城までの道を、今まで以上にのんびりと歩き始めたのだった。
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なんだかとっとも感覚的な会話。
どちらにとってもはっきりとした意思や意図はなさそう。
強いていうなら、坊ちゃんは何か感じるところがあったのかも、くらい。