4階から5階へ続く階段を昇っているところ、軽快な足取りで下りてきた5階の部屋の主と鉢合わせた。
「あれ、ラウ」
「や。呼びに行くとこだったんだ。ちょうど良かったかな」
言葉を交わしながら。線が細くなった、と思った。
「ユウリ、痩せたね」
歩いたばかりの階段を今度は一緒に下りながら、さりげなく言ってみた。
久しぶりに会ったなら、その変わりようというのはよくわかるだろう。しかし普段よく顔を合わせているとちょっとした変化はわかりにくいものである。
にもかかわらず、そう感じた。
「んー。そっか。うん、ちょっと」
「ちょっと?」
「ちょっと」
本人に自覚がないわけではないらしい。
「食べてる?」
フツウに、との返事が返ってくる。
「ふふ。精悍な顔つきになった?」
いつもの笑み。それがなんとなく何かを誤魔化しているように映るのは疑いすぎか。
「そうだったら良かったのにね」
「うわ、それって・・・」
先日グレッグミンスターへユウリがラウを迎えに来た時、少年軍主の傍にはビクトールの姿があった。
少年は他の同行者の装備を整えるために町へ出かけていったので、ラウは残っていた彼に声をかけた。
「ビクトールがここに来るのは久しぶりじゃないかな」
ビクトールやフリックは顔が広く身が軽いため、しょっちゅう様々な使いに走っている。そのためグレッグミンスターへラウを迎えに来ることだけのために訪れることは少なかった。
気晴らしかい?と軽口を叩くと、意外にもまぁなと歯切れの悪い言葉が返ってきた。
不思議に思い顔を窺うと、
「その目はやめてくれ。全部読まれる気がして落ち着かねえ」
「やましい気持ちがあるからそう感じるんじゃない?」
目を力いっぱい瞑って視線から逃れようとするビクトールのごつい腕を捕まえた。
「倒れた?」
観念したらしく大人しく椅子に腰掛けたビクトールの口から出た言葉にラウは鸚鵡返しに聞いた。しかし。
「ああ。・・あー、お前さんの言いたいことはわかる。こんな状況下じゃあ倒れたってそれほど不思議じゃねえってな。いくら俺があいつに甘いったって、それくらいのこともわからなくなるほどじゃねえよ」
「それじゃ」
「ちょっとな。多い。それにおかしい。と、少なくとも俺は思う」
その慎重で控えめな表現に嫌な奇妙さを感じる。
そんなラウの様子が伝わったのか、ビクトールが迷いながらも口を開く。
「言っとくがよくわからねえからな」
くどいとさえ感じる前置きにもラウは口を挟まず次を待っているので、またビクトールは話し出す。
「眩暈くらいならまだしも、急に意識を失っちまうことが度々あるなんてのはやっぱりおかしいぜ。時には息苦しさや痛みも感じるみてえだしな。あいつのことだ、皆の前で倒れるとしたらそれは耐える耐えられないとかいう類のものじゃないんだろう。でも普段から辛そうかっていうとそうじゃなくて・・・まぁ最近は顔色が悪い時もあるが」
「病気の可能性は?」
「ホウアンは精神的なものかもしれないと言っていたが。ようは病気と断定できる要因も見当たらないってことだろうな。どっちにしろ医者がそうなら俺らにわかることなんて何もねえからなあ」
言いながら両手を伸ばし、ぐうっと背筋を反らした。そして止めていた息を一気に吐き出すと、珍しく疲れたような目を天井へ向ける。
「結局俺のしてやれることっつったら、こんなふうに供として一緒にいることくらいだ」
いつ倒れてもいいように。
とは言わなかったが。
「顔色はいいみたいだ」
「そりゃあ病人じゃないんだから」
からからと笑うユウリの首へ手を添える。
温かい。
ユウリは伸ばされている腕へ目線を落としてからおそるおそる尋ねてきた。
「ひょっとして。誰かから聞いた?」
「ビクトールからあらましは」
ユウリがしまったとでも言いたげに微かに眉を顰めた。けれどすぐに笑顔を見せる。
「大丈夫だよ。最近は調子いいんだ。たぶん疲れてたんだと思う。って言ったら生意気だけどねー」
「・・・ちゃんと休みなよ。健康管理も軍主の務めだよ」
ただの疲れであればいい。
それなら休めば回復できるから。
「それ、シュウにも言われた」
バツが悪そうにユウリは自分の頭に手をやる。柔らかそうな、黒髪にしては色素の薄い髪が揺れた。
いつのまにか2階へ着き、そして廊下に出た。ここを左手に進んでゆけばレストランへ辿りつく。
「仕事はひと段落ついてるみたいだし、このままお昼を食べに行く?」
「うん」
元気よく頷いて。
ふっ、と瞳が止まった。
「ユウリ?」
ラウの呼びかけに、ユウリは瞬きを繰り返したと思うと慌てて瞳の焦点をラウへと合わせた。
「あ・・・先に、行っててもらっていい?ちょっと用事忘れてた。でもすぐ終わると思うから」
「わかった」
「ごめん、後から行くから食べておいて」
「ん」
軽く手を振って、少年が階上に続く階段へ消えるのを見てから背を向けた。
と。ざわり、悪寒が走った。嫌な予感に、頭の芯が冷えた。
次の瞬間、たった今少年が向かった階段へ駆け込んだ。
上り数段目の小さな影が目に飛び込んできた。
小さい。蹲るように倒れ伏していた少年の背。
「ユウリ!!!」
呼びかけに僅かに体が動いた気がした。
駆け寄り、脱力して階段に崩れていた体を起こす。
触れた肌はひどく冷たかった。
「ユウリッ」
もう一度呼びかけると、冷や汗に濡れた瞼が微かに動く。が、すぐに力尽きたように瞼を下ろしてしまった。
両足を掬って、抱き上げる。
以前にもケガをした少年を抱き上げたことがあった。
こんなに小さく頼りない存在だったろうか。
階下の医務室に向かうか、階上のユウリの自室に運ぶか、一瞬迷う。
しかしすぐに上へ向かった。
たぶんユウリは自身の異変に気付いたのだ。だから部屋へ戻ろうとした。もしくは他人の目から逃れようとした。であるなら、ホウアン医師の元へ運ぶのは他人の目に触れすぎる。
ラウは唇を噛んだ。
早く医師に見せた方がいいと思った。早く医師に見せたいと思った。
けれどもそれ以上に。ラウはできる限りユウリの希望に沿いたいと思っていた。たとえ些細なことであっても、思い通りになることは本当に本当に少ないから。
ああ、でも。
腕の中にいるこの子は、冷たく、軽い。
さっきまで冗談を言って笑っていたのに。
悲しいという思いよりも怒りが湧いた。
軍主の部屋の戸口に立っていた兵士がこちらに気付くより先に、階下から叫んだ。
「何も言わず、ホウアン殿を部屋にお連れしろ!何を聞かれても答えるなと僕に言われたと言え。行け!!」
突然に命じられた兵士は疑問を抱くより走り出すことを余儀なくされた。
すれ違いざまにラウの腕の中にいる軍主の姿に目を見開いていたが、脚の速度を緩めることはしなかったことに、ラウはホッとする。
今、自分の意思と違うことを少しでもされたら、怒りを止めることができないような気がした。
「ったく何事かと思ったぜ」
壁際に置いた椅子に座っていたビクトールが、隣に立つラウへ声をかけた。
ベッドで横になっているユウリの傍にはホウアンが添って診ている。
「嘘。わかってただろ」
「まあな」
「僕はビクトールが来たことのほうが驚いた」
「たまたま通りかかって良かったぞ。なあ」
どこまでも変わらない明るい調子の声に、ラウは硬かった目元を若干和らげた。
ビクトールはホウアン医師が医務室から廊下へ走って出て行くのを見て察したのだという。相変わらず勘が良い。
「お前があいつの傍にいて助かった」
「それもたまたまだ」
ビクトールがひょいと顔を覗き込んできた。
「ご機嫌ナナメだな?」
「さあ・・・なんでかな。すごく苛々した気分なんだ」
すると、何故かビクトールが困ったような笑うような表情を浮かべた。
「そりゃあお前。いま自分にできることがないからだろう」
当然のようにそう言われて。そうなのか、と自分でも驚くくらいにすんなり受け入れることができた。
「あとは単純にユウリのことが心配なんじゃねえのか。苛々もするさ」
心配。
そう、心配だ。
そこから思いはぼんやりと違うことを辿り始めた。
ユウリはもう思いを決めて走り出しているのに、それが何であるかをラウは知らないと感じていた。
同盟軍の勝利。その大きな目標は変わらない。
それとは違う何かがある。ユウリが誰にも打ち明けず、一人心に秘める何か。
「・・・・・・」
ふと、ビクトールに返事をしていないことを思い出した。
今更肯定の言葉を返したところでなにも変わりはしないだろうと黙っておくことにする。沈黙は自ずとYESを差すだろう。
それにしても。自分の苛々の原因をビクトールにいとも簡単に言い当てられたことになんとなく面白くなさを感じなくもない。
それでも今この男の存在に助けられているのだという自覚は充分にあった。
医師が部屋をあとにしたものの、まだ目を覚ましそうにない少年の姿から目を離さないままで、再び隣に座している男に声をかけた。
「ところで。ビクトールはなんでまだここにいるの?」
唐突に問われて一瞬止まったビクトールは、次にガックリと肩を落とした。
「な、なんでってなあ・・・!」
「いや、別にケチをつけてるんじゃなくて。ホウアン医師はもう大丈夫だと言っていたし、僕はユウリが目覚めるまでここにいるつもりだし。ビクトールはいろいろしなきゃならないことがあるだろう?だから聞いてみただけ」
「ああ」
そういう意味かと安堵の表情を浮かべ、そしてほんの少しいびつに微笑んだ。
「俺はこいつの最初からを見てきたからな」
たったそれだけの言葉にたくさんの思いが交錯しているように感じ取れた。だが。
「僕の時もそうだったね」
「そうだな」
だからどうだというわけではなく。これはただの過去の話。
自分は何も気付いていない。そう、彼が思えばいいと思った。
ベッドに横たわり今までピクリとも動かなかった少年が、微かに喉を動かした。
ラウとビクトールは同時にその動きに目を留めた。目が覚めるのは時間の問題だろう。
「・・・じゃ。俺は出てくわ」
ビクトールが頭を掻きながらのそりと立ち上がる。
「ユウリの目が覚めるまでいるんじゃなかったの?」
「目が覚めて俺とお前が揃ってたんじゃユウリが何事かと思うだろ。お前さん一人くらいがちょうどいい」
「・・・ビクトールがそう思うなら別に止めないけど」
「そこは『なら僕が出ようか』とか言うとこだぜ、ラウ」
冗談のつもりか歯を覗かせていつもの彼らしい明るい笑みを返してきた。
ラウも一緒に微かに笑うと肩を竦めてみせた。
「僕はいたいからいる。君は出たいから出る。引き止める必要はないし、ましてや交代だなんてありえないな」
「そこは俺の心の奥を感じ取ってだな」
「なんで僕がビクトールの心の奥を読み取る必要があるかな。大体今更そんな遠慮する関係じゃあるまいし」
「クールなやつだな」
「ビクトールに比べればってとこ」
「俺だってフリックに比べれば」
「それは比較の意味がないと思う」
「そう言うな、あれでも昔よりは・・・」
「あのさ。フリックの話はどうでもいいんだけど」
「あん?なんでこんな話題になった?」
「自分で言いだしておいて忘れるかなー」
そんなどうでもよいやり取りに場の空気が少し和んだ頃。
ユウリの瞼がゆるりと開いた。
ユウリは向かい合った状態のラウとビクトールを視界に収めるとへらりと笑いかけ。
「・・・うるさいよー」
起きたばかりの掠れた声でそう言った。
「ビクトールはもう部屋出てくから静かになるよ」
「おいこら、お前が言うな。やっぱり出てかねえぞ」
そんなやり取りを交わす2人に、ユウリは枕に頬を寄せてクスクスと笑い出す。
「もー・・・2人とも出てって・・・」
口調は楽しそうだけれど。
ラウとビクトールは表情を収めるとベッドへと近づいてきた。
「・・・?なに・・・」
口をたどたどしく動かしている間に、ビクトールの手がユウリの視界を遮り、瞼の上に下りてきた。
ユウリは促されるように開けていた瞳をもう一度閉じた。額から目までを覆ってしまった大きくて厚いその重みが心地良い。
そして別の手が髪へ触れてきた。
ビクトールのよりもずっと細めの指が髪の間を通る感覚にとても安心感を覚える。
「また倒れちまったのか」
「ん・・・」
責めるではない低い声に小さく唇を動かして応える。
「ユウリ。もうちょっと寝てるといい。起きたら何か食べに行こう」
「え・・・。ラウ、ひょっとして」
「大丈夫、僕は食べたよ。君が目を覚ますのを待ってる間にね」
「そ、か。・・・良かった」
「そ」
平然と答えるラウへビクトールがチラと視線を流す。ビクトールが覚えている限り、ラウがこの部屋で何かを口にしていたということはない。ラウは僅かに頷いてみせた。
こんな簡単な嘘、普段であったら通るはずがない。けれど疑いもしなかった少年は、つまりはそれすらも考えることができない状態であるということで。
「おやすみ」
穏やかなラウの声に返事はなく、その代わりにユウリの全身から力が抜けてゆくのをラウとビクトールは添わせた手から感じていた。
やがてユウリの胸元が規則的に上下するようになるのを確認してから、2人はそっと手を少年から離した。少年は少しも反応せず、深い眠りについたようだった。
音をさせないように椅子をベッドの近くへ運び、ラウはそこへ座る。立ったまま彼の動きを目で追っていたビクトールはわざとらしく、さて、と言い。
「ラウ。お前まだここにいんだろ?」
「うん?そうだけど」
「なんか食うもの持ってきてやるから食べろよ」
先ほどのユウリとラウの会話を聞くまで気付かなかったのだが、どうやらこの少年は昼食を摂っていないらしい。窓の外では空気が赤く染まりつつあった。
「いいよ。ユウリが起きたら一緒に食べるから」
想像通りの返事にビクトールはため息を零す。
「ユウリが起きるのって何時だ?あのな。ユウリにゃ今は一番に休息が必要だが、お前は健康なんだから食事を摂る必要がある。いいな、俺がわざわざ取ってくんだから食えよ」
そう念押ししながら部屋の外へ出て行った。ラウはビクトールの広い背が閉まる扉に隠れていくのを黙って見ていた。
「・・・健康だから食事を摂る、か」
きっと間もなくビクトールは宣言通りに何か食べるものを持ってきてくれるだろう。けれど。悪いとは思うものの、食べられる気が今はしない。
何がこんなに自分を不安にさせているのかがわからない。医師は大丈夫だと言ったのに。そう、彼はまた間もなく目を覚ますのに。
違う。この不安は違うのだ。掴めない何かが不安でたまらない。
「ユウリ・・・?」
穏やかな眠りについている少年の柔らかい黒髪の先をそっと撫でる。
「早く起きて。元気になって、ご飯を食べに行こう」
うん、といつもなら元気な返事が返ってくるところ。
彼の唇は言葉を発せず、瞼と同じように軽く閉じられたまま。そして静かに呼吸を繰り返し、何事もなかったかのように横たわる。
頬はさきほどの病的な白さが消え、血色を取り戻り始めていた。触れて、ぬくもりを確かめたかったが、それで起こしてしまうのが躊躇われて途中で手を引き戻した。
そのまま椅子の背もたれに腕を重ね、そこに額を乗せて目を閉じた。すると、腕の中でぐったりした彼の姿が思い出された。
軽くて、冷たい、あの子の体。
「・・・ああ。なんだかとてもやるせないよ・・・」
ビクトールが早くこの部屋に戻ってきてくれたらいいのにと思った。
食事なんて後でいい。この子と一緒に食べるから。
だから。
「ユウリ。早く、起きて」
腕の中で呟いた言葉は、誰に聞かれることもなく自らの胸元で消えていった。
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暗くて長い話になってしまいました。オチは一体どこに・・・。