シュウが戻ってきた時。
　アップルを始め、皆がその姿の痛々しさよりも 生きて還ってきた喜びに涙を滲ませ笑んでいた時、ユウリは一人笑わず、 少し離れた場所からシュウをただじっと見つめていた。



「ユウリ。お前シュウのこと睨んでたな」
「・・・睨んでたかな？見ていた自覚はあるけど」
　部屋を訪れていたフリックが、少年の突き放した言い方に声を上げて笑うと、 ユウリはあまり面白くないという顔をした。
「そこ、笑うところじゃないと思う」
「珍しく本気で怒ってるなぁと思ってな」
「なんで。シュウの生還を喜びはすれ、怒る必要なんてないじゃないか」
　まるで観察するようなフリックの視線から逃げるようにテーブルに 向かった。コップに水を注ぎ、一口飲む。
「飲む？」
　コップをフリックに掲げて尋ねる。首を振ったのでユウリは戻らずにテーブル の傍にある椅子に座った。もう一口飲んでコップをテーブルに置くと、ベッドに 腰掛けているフリックを見やる。
「で、フリックはそれが言いたくてわざわざ僕の部屋に来たの？」
「いや。まさか」
　と言ってフリックには珍しく人の悪い笑みを浮かべる。
「シュウがな、心細そうな顔してたぞ」
「・・・シュウが？」
　楽しそうに言うフリックにユウリが怪訝に目を上げる。
「俺の顔見るなり開口一番『ユウリ殿は？』って。あいつのあんな顔が見れる とは思わなかったな」
　思い出し笑いをするフリックから顔を逸らすとユウリはやはり機嫌が悪そうに 口を開く。
「僕の機嫌を伺うシュウなんて見たくないし、有り得ないよ」
「そう言うな。あれでシュウもある部分では悪いと思ってるんだ。 それにお前の機嫌を伺うなんて今に始まったことじゃないぞ。気付いてなかった のか？」
　ユウリはよほど驚いたのか、不機嫌に細められていた黒目を大きく瞬かせた。
「ははっ、本人ほど気付かないってやつだな。いつも自分が発言した後はじっと お前の顔を見てるぞ」
「もう。それは僕の機嫌じゃなくて、反応を見てるんだってば」
　なんだ、と若干肩を落として返すユウリをフリックは指差した。
「読みが甘い。お前の軍主としての反応は当然軍師の見るところさ。 それ以外でもな、見てればわかるんだよ」
「・・・なんでフリックにわかって僕にわからないのさ？」
「そりゃあ、お前は自分のことに精一杯だからだろ」
　さらりと痛い所を衝かれ、ユウリは言葉に詰まった。

　会議などの大きな場でも、シュウの部屋においても、どういう答えを 求められているか、軍主として選ぶべき言葉は、と考えるべきことが山ほどあった。
　普段であれば軽口を叩く時もあるくらいには共に時間を過ごしてきたし、 本音でも語り合っている。
　それでも軍主と軍師の立場でいる時はまた別だ。
　こちらは知識も経験も足りず余裕がない。彼らの話す内容を理解することに 全神経を傾けなければならなかった。

「・・・ずるいよ」
　降参したかのようにユウリは項垂れる。
「僕が軍主であろうと必死になってる時に、機嫌を見られても困る」
　そのまま前のめりになって、テーブルに片頬を置いた。
「でもなんでだろう」
「気になるんだろ。お前はわかりにくいから」
「？わかりやすいってよく言われるけど」
　むしろ『わかりにくい』と言われたことはない気がする。
「確かに表面に出る喜怒哀楽はわかりやすいな。ただ、お前は特に困っている ことや悩んでいることに対しては表現が極端に下手だ」
　ユウリの顔がフリックが目に入る位置までテーブルの上を動いた。
「それは自分の知識不足のせいではないかとまず自分を疑っているからだ」
　ユウリの頬が小さく強張る。
　その通りだった。
　シュウたちの出す結論に幾度か反対意見を抱いたこともあった。 が、その度に自分が何も知らないからそう感じるのではないかと思い、自然と 感情にブレーキがかかった。
「なぁ、ユウリ。お前が自分の知識不足を必死で補おうと勉強してるのはわかるヤツにはわかる。 俺もお前との付き合いは長いしな？」
　首を少しかしげて笑いかけてきた。やや細めた目の端から視線を送る。 色気はあまりないのだが、大人の男性にしては優しい笑い方だ。
「シュウはお前の教育係を自負してるんだよ。アイツのことだ、お前にのぞみが なければ口も出さないだろう」
「そう、なのか、な。アップルやクラウスが期待されてるのはわかるけど。 あの３人はいつも熱心に話し合っていて・・・シュウは二人に対して厳しい言葉 もかけるけど、実は論じ合えることが楽しいんだなって見ていてわかるし・・・ 正直羨ましい。僕はああなれない」
「なんだ、他人のことはわかるんじゃないか。でもな、アップルやクラウスに 対するそれはそれこそ軍師としてだ。楽しんでいるとしたら軍師としての会話 だろう。一緒にされたらあの二人の方がきっと悔しがるぞ」
「・・・・・・」
「お前、あのシュウに気を遣わせてるんだ。もう少し胸張れ」
　フリックはギシ、とベッドのスプリング音を鳴らせて腰を上げると、こちらへ 進んでくる。
「・・・ゴメン。子供っぽいこと言っちゃった」
　ユウリの傍らに立つと、黙って片手を彼の頭に乗せた。
　男性にしては細いフリックの指の間から柔らかい髪の毛が浮く。
　ユウリは子供と言っても良い年頃だが、彼が子供として扱われる場所や時間は そう多くないことをフリックは知っていた。
　少年には知られないように微笑んで続ける。
「ま、アップルにとってシュウが兄なら、ユウリにとっては父ってやつじゃない か？」
「父・・・シュウが？」
　ユウリは顔を上げると目をぱちくりさせた。補足を求める目に応えてか フリックは説明を加えた。
「お前を育て上げたゲンカク殿が第一の父なら、今お前を育ててるシュウは第二 の父ってところだろ」
　呆然とフリックの言うことを聞いていたユウリがやがて口を開いた。
「・・・な、なんか汗が出てきちゃった・・・」
　フリックはからからと笑ってから、からかうような表情で覗き込んできた。
「さぁて。お前に子供っぽい発言をさせた軍師さんはどうする？ そのまま放っておくか？」
　ユウリはうっと声を漏らすと、テーブルに突っ伏してしまった。
「フリックはイジワルだったんだ」
「親切のつもりだったんだが」
　唇の片端を上げて笑うフリックをユウリはじとりと恨めしそうに見上げた。
「・・・でもやっぱり似てるね。意外とおせっかいなところとか。 やっぱり類友・・・」
「ちょっと待った、誰と誰が類友だ？！」
　ユウリの言葉を遮るようにしたフリックに、少年はふっと笑う。
　フリックが部屋に入ってから初めて見せた明るい力の抜けた笑顔だった。
「シュウに会いに行くよ。ここは僕が思ってるよりも心配性が多いみたいだね。 あんまりお父さんに心配かけるのも心苦しいし」
　ガタリと音を立てて椅子をひく。
「だな。年寄りを早く安心させてやりな」
　ユウリはドアへ足を向けながら振り返った。
「一緒に行くでしょ、心配性その２さん。それともお兄ちゃんの方がいいかな」
「・・・その２？お兄ちゃん？は？！」
　にっこり笑って部屋を出たユウリを、反論しそこねたフリックが慌てて 追いかけて出ていった。



「・・・ユウリ殿」
「シュウ。起きてて大丈夫なの？」
　元々色白ではあるが、より顔色が悪く見えるシュウに少年は普段と変わらない 様子で問い掛ける。
「・・・はい。ご心配をおかけして申し訳ありません」
　ベッドには入っていたが、体を起こしていたので頭を軽く下げることはできた。
　傍に書類を手にしたクラウスが立っていたので何らかの報告を受けていたのかも しれない。
「ホウアン先生、シュウの容態は」
「ええ。体中傷だらけですが、ちゃんと完治する傷です。火傷の跡もほぼ綺麗に 消えると思いますよ。数日は安静にしていただく必要がありますが、早いうちに 普段の生活に戻れます。ご安心下さい」
「・・・そう」
　フリックにはホウアンの言うシュウの傷の説明がやけに柔らかい様に感じた のだが、ユウリが安堵の表情を浮かべたことに注意がそれた。

　本当は心配だったに違いない。
　シュウは厳しいが、ユウリに対していつも真剣に向き合っていた。
　少年の弱さや甘さ、そして強さを見抜き、子供として ではなく一軍主としてのユウリと付き合った。だからこそユウリもシュウを 信頼し、時に弱さを見せても正面からぶつかっていった。
　そして最近では軍主と軍師として以上の関係を築き上げつつあったように 思えた。
　その矢先の出来事だったのだ。

「ユウリ殿」
「シュウ」
　シュウが口を開いたところへユウリが言葉を重ねる。
「はい」
「体中包帯だらけだ」
「・・・ええ。ですが先ほどホウアン先生が仰ったようにそれほど酷くは ありません。ご心配なく」
「それは、良かった。・・・シュウはいま何て言おうとしたの？」
　シュウの部屋に足を踏み入れてからずっとユウリは穏やかな様子だった。
　しかしながらフリックは先ほどから得体の知れない不安を感じずにいられなかった。
　ユウリがシュウを許していることはわかっていたが・・・ユウリの自室で見た 冷静さに隠れた怒りよりも、この温和さに隠れたものの方が逆に恐ろしいと思って しまったのだ。こういう場合の勘は当たると決まっている。
　黙っていられなくなり、とうとう声をかけた。
「ユウリ。お前一体何を・・・」
「フリック。後でね」
　微笑みを崩さず拒否を表すユウリ。フリックはそこにようやく怒気の欠片を 見つけあとずさった。
　シュウの顔を見て訴えようと試みるが、自分の犯したこと に思いが集中しているのだろう、この空気に全く気付いてくれない。
「ユウリ殿。繰り返すことになりますが、貴方や軍の者たちにご心配をかけた ことには謝罪します。しかし、あの作戦はあの時、軍にとって必要なことでした。 ですから私はあの行動は間違ってなかったと今でも思います。・・・貴方が、 私の行動をすぐに許して下さるとは思いませんが、それでも理解はして下さると 信じています」
「シュウ」
　ユウリが微笑みを浮かべてシュウに近づく。
「傷はまだ痛むよね。でも右手は上がる？」
　シュウの左腕には包帯が巻かれ、首から吊るす形になっていたが、右腕には ガーゼが当てられているだけで、手のひらにいたっては擦り傷のみという状態 だった。
「・・・？はい、右手は無事です。が・・・？」
「手のひらを開いて肩の辺りまで上げてくれるかな」
　シュウが眉をひそめながらも言われた通りに右手を上げると、ユウリは向かい 合うように立って左手を上げた。
「ちょっとぐらい我慢してね」
　と、ニッコリと言った後。
　ぱあん！と部屋の中で高い音が弾けた。
「・・・・・・わあぁあっ？！！ユウリ殿ーーー？！シュウ殿ーーー！！！」
　先に響いたのはホウアンの泣き声とも取れる叫び声。
　クラウスは目を丸くして軍主と軍師を忙しく見、フリックはドッと冷や汗を 全身に流した。
「・・・・・・！！！！！」
　シュウの開かれた右手を、ユウリが左手で思い切り叩いたのだった。
　ベッドには赤くなった右手を上げたまま硬直しているシュウ。その顔に は大量の汗が吹き出て、苦悶の表情が表れていた。言葉も出ないくらいの痛み、 といったところだろうか。
「無事なのが右手で良かったね、僕の利き腕で叩かずに済んだんだから」
　ユウリの顔から笑みは消えていて、代わりに口はへの字になり、不機嫌さを ありありと見せていた。
「ユ、ウ・・リ・・・殿！」
　シュウはとうとうベッドに突っ伏してしまった。
　手のひら 同士とはいえ、傷だらけの体には十二分にこたえる。さらにユウリにとって左手 は利き腕でないにしろ、トンファーを扱っているという点でさして力の上で右手 と大差ないに違いない。

　そのような行動を取ったユウリをフリックは意外な思いで見つめていた。
　ユウリはキッとシュウを見据えると大声で怒鳴った。
「何か文句がある？僕は怒ってる！許す許さないじゃなくて怒ってる！会うまで は生きてるだけで充分って思ったけど、やっぱりシュウを見てたら腹が立ってきた！」
　青くなっていたホウアンも、うろたえていたクラウスもユウリの剣幕に立ち尽くす。
　あまり声を荒げることのない軍主の怒鳴り声に呆気に取られたのだ。
「あ、謝られたって嬉しくなんかない！僕を、僕らを置いて逝ってしまうつもり だったのが許せない！軍師だったら・・・っ、生きて軍を行くべき場所へ導くの が責任ってものじゃないのか！僕にいつも死んではいけないって言ってるのは どこの誰だ！！自分の言うことを聞けと僕に言うのはどこの誰だ！！」
　顔を真っ赤にして一気に言うと、肩で大きく呼吸を繰り返す。
　他の者と同様に呆然と軍主の顔を見ていたシュウが、軍主の息が落ち着いた頃 にようやく言葉を発した。
「・・・・・・ユウリ殿」
　名を呼ばれた軍主の口元がひきつるように張った。すると、次の瞬間には固く 引き締まっていた顔の表情が見る見る間に緩んでいった。
「生きてて、良かった・・・」
　言葉と共に、大きな瞳から涙が零れ落ちる。
「うわっ。・・・ごめん。こんなこと、言うつもりじゃなかったのに。顔見て ホッとしたんだけど、途端にむしょうに腹が立ったんだ。ごめん、なさい」
　慌てて涙を拭いながらそう言う。しかし一度流れ始めた涙はすぐに止まらず、 拭ったすぐ後からまた新たな涙が落ちる。
　シュウは困惑の表情を一瞬見せたが、その赤くなった右手で寄るようにと招く。 目をこすりながら近寄ったユウリの腕に手を添えると笑顔を見せた。
「安心しました。こういうことに聞き分けのよい貴方なんて貴方らしくありま せんから」
「な、なにそれ。いつも軍主らしくあれってウルサイのにさ」
　涙のまだ乾いていない顔に笑顔が戻る。
「それはそれです。私も生きて帰れて嬉しいんですよ。貴方にはお教えしたいこと がまだ山ほどありますので」
「それは怖いなあ。・・・この際、ゆっくり休んでよね。 迷惑かけないように、頑張るから、さ。・・・ じゃ、じゃあホウアン先生あとはよろしく！」
　シュウの手からすり抜けるとドアへ走り出した。
「おい、ユウリ？」
　フリックの呼び声にユウリは照れを隠すかのような笑顔で応える。
「部屋に戻って、怒ってて進まなかった書類を片付けてくる！」
　次の言葉がかけられるより先に部屋を飛び出し、ドアの閉まる音が響いた。



「ということだそうだ」
　フリックが肩を竦めながらシュウを振り返ると、シュウは疲れ果てたように ベッドに体を預けてしまっていた。
　ホウアンが横になるのを手伝いながらため息交じりに零す。
「ユウリさんが手を挙げた時は冷や汗が出ました。幸い傷 は開いてないようですが、あの勢いでしたら開いてもおかしくなかったですよ。 シュウさんも無茶です。安静に寝ていていただきたいのにユウリさんが来るかもしれ ないと体を起こした状態で待つと言うし・・・。それにもしも容態を聞かれたら、 余計な心配をかけたくないから詳しく言うな、だなんて」
　クラウスも苦笑する。
「そうですよ。待ち時間を潰すために、寝ていた間の軍情報を聞きたいだなんて 仰る。アップルさんに黙ってここに来るのは大変だったんですからね」
「ああ。二人には感謝している。それと、そこの心配性なお方にも、な」
　枕に頭を乗せながらフリックに目を向ける。
「あんたが俺のことを心配性だなんて言うな。ったくユウリは軍師殿の意地の 悪い言い方も受け継いだらしい。もう俺も失礼する、せいぜい早く治すんだな」
　青いマントを重い音をさせながら翻すとドアへ向かう。
「ああ、そうだ」
　ドアノブに手をかけて止まった。
「お父さん。あんまり子供に心配かけるなよ」
　にやりと笑うフリックにシュウは眉を寄せた。
「お父さんとはなんのことだ」
「俺はお兄ちゃんだとさ。あんたと親子だなんて俺はゴメンだけどな」
「な、なんの話だ？！」
「お願いですからもう安静にしてください・・・」
　体を起こそうとするシュウをベッドの横に立つホウアンが俄かに背中から怒り のオーラを漂わせながら言った。
「わ、私も失礼します」
　書類を束ねたクラウスが先に部屋を退出し、続いてフリックも出ようとする。
「フリック」
　後ろからの声に足を止める。
「何を言ってくれたのかはわからんが、ユウリ殿を連れてきてくれたことに感謝 している」
「・・・あんたの為というよりかはユウリの為だ。あいつの冷たい表情ってのは どうも見てられないんでな」
　この場にいる者の脳裏に横切ったのは、きっと同じ顔。ナナミを亡くした時の ユウリの表情。
「それを俺がまた与えるところだった、か？そんなに俺はあの人にとって重要な ポジションにはいないと思うが」
「・・・何を言っているんですか。貴方とユウリさんがどれだけ一緒にいると 思っているんです。もうちょっと自覚してください、でないと周りも困ります」
　小さく息を吐きながらホウアンも疲れたように呟いた。
「そういうことだ」
　笑いながら退出しようとしたフリックをまたもシュウが止める。
「もうひとついいか」
「あんたが俺を引き止めるなんて珍しいな。だが、ホウアン先生に睨まれる前に 退出したいんだが？」
　フリックの言葉にホウアンは笑みをひとつ零すと、どうぞ、と首を傾けて促し た。
「ひとつ意見を聞きたい。私は立派な軍主を育てるのが自分の仕事だと自負して いる。だが、先程ユウリ殿が剥き出しの感情をぶつけてきたことに安心感を 覚えた。これをお前はどう思う。間違っていると思うか」
「・・・さあなぁ。俺には軍師の気持ちはわからん。ま、一傭兵の俺としては どんなときでも綺麗に微笑む軍主なんてぞっとしないがね」
「そうか」
　シュウがこちらへ向けていた顔を天井に向け、質問が終わったことをフリックに 知らせる。
「じゃあな、お父さん。失礼するよ」
「黙ってさっさと行け。気持ちが悪い」
　閉まりかけのドアの向こうから聞こえてきた声は真剣だが笑いを含んでいた。
　フリックは軽い足取りで石造りの廊下を歩き出した。