眠れない日が少しばかり続いていた。
とは言っても全く寝ていないのではない。横になってしばらくすればウトウトしてきてやがて意識はなくなった。だが、眠りが浅くてすぐに目が覚めてしまうのだ。
眠たくないわけでもない。寝台へはそれこそ倒れこむように入り込む。しかし夢うつつな時を繰り返し、朝になっても疲れがすっきり取れない。
残った疲れが体全体を覆い、頭を重くさせていた。
疲れ?・・・疲れなど。
ユウリは息を吐き、自らのその行為で自分が起きているのだと自覚させられた。
瞼を開けようとしたが、思うように上がらなかった。その努力をする意味もわからず、また面倒くさくなって力を抜けば、再び緩い眠りの中へと落ちていくのだった。
あ、と思った。
頬を空気が滑っていく。
この部屋に動きそうなものなど、まして風を起こすようなものは何もないのに。
窓の鍵は閉めたろうか。あまり覚えがない。
何か。誰か、入ってきた?
ユウリはほんの少しおかしくなって笑った。それは顔に少しも表れなかったが。
だって。「誰か」さんが気配をまったく消していないから。
僕だよ、と伝えてくるようなそんな空気さえ感じられる。
彼はよく気配を消して近づいてくるから(やめて欲しいと訴えたことは一度や二度ではないはずだが)今日のようなことはまこと珍しい。
どういった気まぐれだろう。
けれど瞼を開けるのはどうにも億劫で。
それでもなんとか存在に気付いていることくらいは伝えたいのだが。
ラウ。
声は出なかったように思う。
ひょっとして自分は寝ているのではないか。体は眠り、頭だけが覚醒しているような状態・・・にしては頭の動きも鈍い気がしてしょうがない。
もう一度呼んでみた。
ラウ。
返事はなく。
きしり。
枕に沈んでいた頭が若干右に傾いた。
どうやら枕元に腰掛けたらしい。
寝台が小さく軋む。
きし、きしり。
右頬に熱を感じた。触れてはいない、ギリギリの距離での人肌。
手を、翳しているのだろうか?
何のために。彼は一体何をしているのだろう。
「・・・随分とごちゃごちゃ考えているんだな」
耳元で突然囁かれた。
手ではなく、顔が近かったようだ。
ユウリは思う。ごちゃごちゃ考えてしまうのは、ラウが部屋に入ってきたからだと。
「違うだろ。僕が部屋に入る前から考えてた」
・・・・・・。でも、気になることは気になるんだよ。
「気にしなくていい、僕のことは」
気になるんだってば。
「そんなに気になるなら起きれば?僕の相手をすればいい」
起きるのはとても億劫なんだ。
「起きるのが億劫なら眠ればいい」
眠れないから起きてる・・・起きてるのかな、今のこの状態は。
「こんなに近くにいて目を合わせて話さない、今の状況を会話しているというのならば」
・・・ある意味会話は成り立ってる気がするよ。え、なんで成り立ってるんだろう。
「僕はユウリの声が聴きたいんだけどな」
それはもう試してみたんだ、けれど名前も呼べなかった。それくらいに・・・寝てる、のかな。
「聴こえたよ」
え?
「僕の名前、呼んだだろう。だいたいユウリの声が聴こえてなきゃ今の会話・・・っていうの、これ?まぁこの会話も成り立たないよね」
閉じられていた瞳がぱかりと開いた。
「やあ。おはよう」
挨拶をされるものの、先ほどまで重かった瞼がいとも簡単に開いたことに驚き、ただ瞬きを繰り返した。
そして彼の人を見ようと試みてみたが。
視界いっぱいにあるラウの顔に焦点が合わない。
「・・・・・・近すぎる」
ようやく出てきた声はそれだった。ラウの、ふ、と笑う音が聴こえる。
「第一声がそれ?傷つくなあ」
「・・・?僕、声に出してたんでしょ、ずっと」
「いいや。僕は君の声が聴きたいって言ったよね」
「言った、けど。でも聴こえたって言ったじゃないか」
「なんとなく」
「え」
「そう言っているように思えた。だからそれに答えただけ」
言っているように思えただけで、ああも正確に返答できるものだろうか。
否。
よほど訝しげに見ていたのだろう、ラウがくすりと笑った。
「本当だよ。君はいま目を開けるまで声を出していなかった。だけど僕には君の声が聴こえた」
「・・・そんなの」
「信じない?」
とも言い切れない。確かに彼は答えていたから。
「・・・顔、近い」
とりあえず、ふたたび現状を訴えてみた。
「だって聞こえないかと思ったからさ」
「うん、もう聞こえるよ。ところで今って何時・・・」
ラウの顔が遠ざかるのを待って、問いかける。
「夜中の3時」
「えっ」
「『えっ』?」
「だ、って。そんな時間にここに来たの?」
ラウはきちんと服を着こんでいた。トレードマークのバンダナは今は外されているが、髪もきれいに整っている。
「ラウ。まだ寝てなかったの?」
次から次への質問にラウは苦笑を零した。
「ユウリこそ。寝てなかったの?」
ラウにうまく返事をはぐらかされたことに気付かないままユウリは素直に返答する。
「寝てたよ。ラウが来たからこうやって起きて話しているんじゃないか」
そこでユウリはラウの顔を覗きこむように窺った。
「・・・どうしたの、ラウ。もしかして眠れない?」
どうしてやってきたのかは尋ねられるだろうと想像していたが、自分の心配をされるとは思わなかった。
ユウリの瞳は本当にラウを心配しているようで、ラウは驚きに一瞬言葉に詰まってしまう。
「・・・いや。昼間、ユウリが眠たそうな顔をしていたから。ちゃんと寝てるかなって見に来た」
「僕を心配してたの?」
今度はユウリが驚いて目を見開く。
上半身を起こそうとしたら、ラウに「起きなくていいよ」と肩を押され、ユウリの身体はあっさりと再びシーツに沈んだ。すっかり覚醒したつもりになっていたけれど、体はまだ半覚醒状態だったようだ。
ユウリはそれ以上無理しようとはせず、だが自分自身に呆れて眉を下げた。
「やだな。ただの軽い睡眠不足なんだ。本当に心配かけるほどのことじゃないよ」
「そう。それならいい」
眼下のユウリへ向けて微笑む。その笑みは心からそうあればいいと願う透明なもので。
「・・・優しいね」
「うん?僕はいつも優しいつもりなんだけど」
冗談めかして、でも決してうるさくない柔らかい声で言う。
至近距離でラウの瞳をまっすぐに見ていたユウリの瞳が細められた。少し、困ったように。
「うん、そうだね」
「素直でよろしい。そのまま寝てくれるともっとよろしいんだけどな」
「何故?」
「僕も部屋に帰って寝るから」
「ここで寝てけばいいじゃない」
「今日は戻るよ」
「そう」
ユウリは応えてから、何気なく窓に目をやった。中途半端に閉められたカーテンから覗いている鍵はきちんとかかっているようだ。
「ねえ。どこから入ってきたの?」
「扉から。当たり前だろう」
普通はそうだろうけどラウの場合はね、と心の中で返事した。
「何か言った?」
「・・・口は開いてなかったでしょ?」
「聞こえた気がした」
「気のせいだよ」
「気のせいか」
双方が口を閉ざすと、しん、と一瞬にして静寂がこの場に満ちた。
ユウリがラウへ目を向けると瞬間目が合ったが、ラウに先に逸らされてしまう。
僕は好きにしてるから君も好きにすればいい、とそっけない態度で言っている気がした。
それじゃあ、というわけではなかったが、少し前から訪れていた瞼を下ろそうとする力に負けることにした。
目を閉じれば一人でいる部屋と変わりはないのに、自分を取り巻く空気が先ほどよりも柔らかくなっているように思えた。
肩の力が抜けてゆく。
頭は相変わらず重いけれど、きっとこのまま沈むにまかせて構わないのだ。
頬に感じたような熱とは違う、人の気配が暖かかった。
ゆるゆると意識が沈んでゆく中。
額に何かが触れていった。
遠い昔、じいちゃんやジョウイやナナミから頬や額にもらったものだと辛うじて思い出す。
でもナナミは熱烈だったから、じいちゃんやジョウイ・・・じいちゃんが一番似てたかもしれない。ただ乗せるだけのささやかなものか、頬を合わせるだけのものだったように思う。
そう目の前にいるだろう本人に伝えたらどんな顔をするだろうか、と考える。その反応に興味がある。
でも、じゃあ次はナナミタイプで、なんて言いはじめたら堪らないからやっぱり言わないでおこうと思う。
「また何か考えてるね」
ラウのことだよ。
「おやすみ」
今度は聴こえなかったのかな。
また、額に同じ微かな感触。
なんとなく。二度はやりすぎだと思った。これは次に起きたら直接言おう。
・・・起きたら?
ああ、僕はもう寝てるのか。
「ほら」
うん、おやすみなさい。
また明日。
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