ある夜。
どちらから先に提案されたのだったか、デュナン湖へ繰り出そう
という話になっていた。
2人で舟を漕いでも構わなかったがタイ・ホーに頼むことにする。
彼ならまだ飲んで起きてるに違いない。酔いが回りきってなければ
いいのだが。
彼は夜中に二人揃って小屋に訪れたことに少々驚いていたがニヤリ笑い、
「かつてのリーダーと今のリーダー、両方から頼まれて断るわけにはいかねえな」
と、おちょこを高い音を鳴らして床に伏せ、すっくと立ち上がった。
空へ向いた頬を掠めていく少し湿った風。前髪が時折思い出したように瞼を
くすぐる。
不規則に細かく寄せる水音と、オールを漕ぐ時に鳴るギィという音だけが耳に
入ってくる。
数センチ隣にいるはずの同行者とは先ほどから口をきいていない。はず、
なのは並んで座ったのは確かだがその後すぐ目を閉じてしまったから。
それでも人の熱をかすかに感じる。
タイ・ホーのオール捌きはさすがといったもので、舟の揺れはほとんどいって
ない。
いつだったかタイ・ホーは「女を扱うようなもんだ」と得意げに言ったが、
ラウの「そういえばキンバリーはどうしたの?」という質問に顔を土気色にした
ことは2人の記憶に新しい。
くすり、と小さく漏れた笑い声に隣人が反応した。
「なに?」
久しぶりに聞く人の声は耳にとても鮮烈だ。
「ちょっと」
これでは答えになっていないけれど更なる追求の言葉はない。これ以上口を
きくことはどちらにとっても億劫に思えたのだ。
緩やかに前進を続ける舟。
自分の右手、隣人の左手は水の中にあった。
「そういえば野宿をした時に夜空の下で目を瞑っていると、夜に溶けていく
ような気がしたっけ」
舟が岸を離れたばかりの頃、短い会話を交わした。
「あ、それわかる。面白いよね。案外空は明るくて、目を閉じても空が見える
気がするし」
ラウとユウリの会話を聞いていたタイ・ホーが口を挟んできた。
「お2人さんよ。もひとつ面白い体験をさせてやろうか」
目をぱちくりさせる2人にタイ・ホーは言った。
「水の中に手を入れてみろ。あとは同じようにただ目を瞑っていればいい」
こんな風のない日は特におすすめだ、と口の端から歯を見せて笑った。
言われるがまま水に手を入れた。
ゆるゆる、とろとろと。
水がゆるりと指の間を抜けていき、手首は水を切っているはずなのに、
周りこんではまとわりついてくる。
いつしか指と水の境目がわからなくなった。
まるで、指先がとろりと水に溶けるような、自分が半透明になったような。
どちらともなく緩いため息が漏れた。
「気に入ったか?」
邪魔をしないようにとでも思ったのか、タイ・ホーは小声で尋ねてくる。
目を閉じたまま口元だけの笑みを返す。隣からも声はない。
「そりゃ良かった」
ククッと笑って、それを最後に口を閉じた。
手が水に引っ張られることがないように、舟は随分とゆっくり進んでいる。
本当は止まっているのかもしれないけれど、そんなことはどうでもいい話。
ゆらりゆらりと揺れるのは、舟ではなくて自分の意識だろうか。
閉じた瞼の下で、暗闇を見ているのか意識を手放したのか。もう自分にはわからない。
瞼の裏には夜空が広がり、指先は水に溶け。
空が白む刻が来るまで曖昧な夢に行き来する。
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坊視点でも2主視点でもいいかなと思いながら。セリフも同様。