ほんの少し疲れたときがあった。
それはひどく打ちのめされるようなものではなく、本当にただ体が疲れただけ
の時。それでも体が疲れれば多少なりとも心も引っ張られるもので。
その自覚があったから皆からそっと離れ、人気のない廊下で窓を開け放し、
目を閉じると小さく頭を項垂れた。
「よお」
突然の声に肩が跳ね上がった。
「ビクトール。び、びっくりした・・・」
無防備でありすぎた。いつもなら人が近づくことくらい察知できたのに。
まして相手はビクトール。彼もわざわざ気配を消して近づいたわけではない
はずだ。
「飲まねえか?」
気にした様子もなく隣に並んだ。ビクトールの差し出したグラスの中で
氷がぶつかって夜の闇に心地良い音を響かせた。
ユウリはやんわり首を振って断る。酒を飲むという気分ではなかった。
あとは部屋に戻って眠ってしまえば。きっと朝には気持ちが晴れている。その
程度の疲れ。
「疲れてるな」
聞こえていたのだろうか、と思うほどのタイミングで声がかけられる。最も
ユウリも隠すつもりもなかったからビクトールにはわかって当然であったに
違いない。少年は小さく小さく微笑む。
「うん、ちょっと。でも寝れば大丈夫」
「そいつは頼もしい。若さだねえ」
「おじさんくさいよ、その口調」
クックック、という喉で笑う音を聴きながら、再び目を瞑って外を向いた。
ビクトールの隣なら目を瞑れる。
そよそよと髪の先が揺れる程度の風がいまの気分には丁度良い。
「不安か」
「・・・うん、ちょっと。でも寝れば大丈夫」
「そいつは頼もしい」
つい先ほどと同じ会話を繰り返し、2人して肩を揺らして声に出さず笑った。
「しかしな、俺は思うんだが。ユウリ」
「うん?」
「不安なんてものは、まったく希望のないところには生まれないんだぜ」
パチリと目を開け、ビクトールの方へ体ごと向き直る。
廊下にも灯りはあるが、この場所にはほとんど届いていない。そんな場所を
選んだから。だが、空に浮かぶ月や星の光は思いのほか明るく、ビクトールの
姿をくっきりと映し出していた。青白く照らし出された彼はとても大きく見えた。
「何かに取り組む時、100%の確信をもって臨めるヤツなんていやしない。
だから未来に不安を感じるんだろう。でもどうなるかわからないという不安が
あるなら、それと同時になって欲しいという願望があり、つまりそこに希望も
あるってわけだ。違うか?」
ユウリは黙ったまま首を横に振る。そしてビクトールの言葉を頭の中で反芻
させる。
「僕は」
口の中がカラカラになっていた。一度口の中を湿らせる。
「僕は時々、不安だけでいっぱいになる」
それだけを辛うじて口にした。
いろんな思いが交差して言葉という形にすることは難しいし、またできたと
してそれを口にすることが正しいこととも思えなかった。
きっとビクトールならわかってくれる、そんな甘えもまたあった。
「そりゃそうだろうな」
不安を抱えていない人なんていない。ユウリもわかっていた。でも今そうは
言わずにただ受け止めてくれたビクトールの優しさが嬉しかった。
「今この新都市同盟軍という集団にとって、勝利という希望を見るためにお前
が必要だ」
わかっているよな?と確認するように目線で問いかける。
ユウリはそれに頷こうとして。そのまま前のめりに廊下の壁に額を押し付けた。
「うう、押しつぶされそう・・・」
頭では理解している、でもしっかり頷くことが今はとても難しい。
「弱音が吐けるなら結構。ま、押しつぶされたら回収してやるよ、まかせとけ」
こともなげに言われて重たい頭を壁から離した。
「・・・それはアリガトウって言うべきなのかなあ」
「すぐ回収できるくらい近くにいるってことさ」
ニッと白い歯を見せて笑いかけられて、ユウリも知らず笑みを浮かべる。
ビクトールの浮かべる人の好い笑顔には包容力が感じられる。それはきっと、
彼がとても強い人だから。
「俺だけじゃないぜ、フリックの野郎だっていねえことねえし、ラウもお前
のことは気にかけている。名前を挙げりゃキリねえがな。お前が寄りかかりたい
と思えば、それに応えるヤツはそれなりにいるってこった」
「・・・うん」
そうなのだろう。ただ、自分でいつがその時なのか判断が付かない
のだと思う。つい答える声が弱くなった。
突然伸びてきたビクトールの大きな手の平がユウリの頬を両側から支えた。
真っ直ぐに見下ろす
真っ黒い瞳の中に金の星を見つけ、ユウリはぼんやりとラウの瞳を思い出す。
ラウも黒の瞳の中に金の星を隠している。そういえばどことなく似ている気が
する。どこがというわけではなく、ただ、何かが。
「ユウリ」
名を呼ばれて我に返る。
「いいか、よく覚えておけ。お前の傍には俺たちがいる」
ユウリはビクトールの瞳を瞬きもせずに見つめた。
「そして、お前がいるからこそ、俺たちもここにいるということを忘れるな」
ニィと人の好い笑み。
やっぱりこの笑顔には勇気付けられるとユウリは思う。ユウリもうっすら
笑みを返すと、ビクトールの手がパンパンと軽く頬をを叩いた後あっさり離れた。
すこし寂しい気がして目が何かを探す。と、先ほどビクトールにすすめられた
酒の入ったままのグラスが目に入った。
「ね、やっぱりそのお酒頂戴」
「おう。飲め飲め」
手渡されると、そのままぐーっと一気に飲み干した。それはおそらく自分用に
作られたのだろう、少し薄めに調整された果実酒だった。わざわざレオナに
作ってもらい、これを渡すために部屋まできてくれようとしていた途中で
自分と会ったのか。
氷で冷やされた果実酒が胸にほんのり温かく、とても満たされた気持ちになった。
「よし、いい飲みっぷりだ。まっすぐ部屋まで行けよ、途中で寝こけてんじゃ
ねえぞ」
空になったグラスを受け取りながらビクトールが言った。
「うん、ありがと」
にこりと笑って背を向ける。階段へ足を踏み出そうとして振り返った。
「ビクトール」
「ああ?」
「寝る前に疲れが取れちゃったみたいだ」
ビクトールはニヤリと笑って手を振った。
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「パンドラの箱」。これはオイシイ題材だと
思っていたのですが、出来上がったのはフツーの会話文でした。
箱に残った「希望」からすすめてみました。あまり題材に囚われず、2主やらに
当てはめて展開。